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米国連邦議会調査局報告1996
「日米関係−1990年代の米国議会にとっての課題」
        

(1996年8月2日改訂)
ロバート・G・サター
外交・国防部コーディネーター


目次

要旨.................................(3)

最近の進展状況............................(4)

背景と分析..............................(4)
  日米協力と相互依存関係

高まる日米緊張感...........................(5)

日米通商・経済問題..........................(5)
(著者:ウィリアム・クーパー 経済部)

日本の国内経済問題..........................(8)
(著者:ジェームス・ジャクソン 経済部)

科学技術問題............................(10)
(著者:グレン・マクロフリン 科学政策部)

日本の政治問題...........................(10)
(著者:リンサップ・シン 外交及び国防部)

安全保障問題 -- 外交政策の違い...................(12)
(著者:ロバート・サター シニア・スペシャリスト 外交及び国防部)

米国の対日政策アプローチ......................(14)
(著者:リチャード・クローニン 外交及び国防部)

法案と決議.............................(17)

年表................................(18)

 
要旨

 日米関係は不安定で、ともすればきしみがちである。長年にわたって軍事同盟関係にあり、経済的パートナーとしてますます相互依存関係を深めている日本と米国は、民主主義の価値観と世界の安定及び発展に対する関心に基づいて、強力かつ多面的な関係を築くため緊密に協力してきた。 しかし、日本は現在、米国にとって経済的にも技術的にも最大の競争相手となっている。

 クリントン政権は、日本やその他諸国との巨額の貿易赤字の根源である米国の財政赤字削減に努力する一方、日本に対して、日米貿易に重要な影響を与えるような商慣行の変更を強く迫ってきた。両国政府は、1993年7月、貿易紛争の解決を目指す交渉の枠組みについて合意した。しかし日本は、合意内容を数値化しようとする米国政府の努力に抵抗を続けてきた。

 日本の政策は、国内の政治的な混乱のため複雑な状態にある。一連の政権交代後、1996年1月11日に橋本龍太郎首相が誕生した。さらに、日本は長引く不況のため、米国の要求に応じて対策を講ずる余地が少なくなり、その結果、これまでに比べ、日本としては経済的譲歩をしにくくなっている。

 米国連邦議員の多くは、クリントン政権同様、こうした日米関係の現状にどのように対処するかで意見が分かれている。現時点では、米国は日本に変化を求める圧力を緩和すべきだと主張する人々がいる。彼等は日本の政治改革に有利な条件を作り出すことを望んでいる。というのも、その結果、日本の消費者市場を外国との競争に開放することを希望している有権者の発言力が大きくなり、米国が求めている他の経済改革への支持も得られると信じているからだ。他方、米国議会及びクリントン政権内には、日本が何の行動もとらなければ、日本にとって重大な結果を招くことを米国が明白に示さない限り、日本の官僚、経済指導者、政治家は、積極的に米国に協力するような措置をとらないだろうとみる懐疑的な人達もいる。


 1994年10月1日、日米両国は貿易3分野で合意に達した。その後の進展を見ると、日米貿易摩擦は、時には緩和し、時には激化した。クリントン大統領は、1994年11月及び1995年1月の日米首脳会談では、過去に比べ穏やかな姿勢を示したと言われている。

 同大統領は、自動車・同部品問題で対日制裁を発動すると脅したが、同問題は1995年6月28日、瀬戸際の妥協で決着した。民間貨物航空問題は7月に解決したが、フィルム問題が前面に出てきた。1996年半ばには半導体交渉が長引いた。

 安全保障のきずなを強化しようと両国政府は共に努力しているが、米軍兵士による婦女暴行事件や、在日米軍の規模整理、縮小を求める日本国民の圧力が高まっているため、事態は複雑になっている。それにもかかわらず、1996年4月の日米首脳会談で、両国は安全保障関係の強化を目指して重要な措置をとった。


最近の進展状況

 半導体貿易に関する日米協議は、長引き、1996年7月31日の期限を過ぎ、8月初めまで続いた。

 下院を通過したある法案(HR3666)には、予想されていた日本製のスーパーコンピューターの米政府期間への売却を禁止するものだと日本政府が指摘した条項があった。同法案についての1996年7月11日付の上院歳出委員会の報告書には、この条項は含まれていない。

 1996年5月15日、下院は1997年度国防歳出予算案を、同盟国による役割分担を増加するという修正条項を付けて可決した。1996年6月に行われた上院による国防歳出予算案の審議の結果、防衛の役割分担に関する修正条項は、他の同盟国と比較して日本の寄与度が高い点を強調して可決し、また日米半導体協定の再協議を求める修正条も可決した。


背景と分析
日米協力と相互依存関係

 米国と日本は、相互の経済的な繁栄と地域的な安定という共通の目標を長年にわたって掲げてきた。経済面では、両国はますます相互依存関係を深めている。米国は日本にとって最も重要な外国市場であり、また日本市場は米国にとって、単一国としてはカナダに次ぐ価値の高い市場である。貿易収支は日本に極めて有利な状態にある。1995年末において、米国の対日貿易赤字は593億ドルであった(下記の表1を参照)。対米国投資(証券投資、直接投資、その他の投資を含む)で、日本は最大の国の一つである。

 日米同盟が目指しているのは、米国が日本の安全保障を確保し(ただし日本には米国の防衛を支援する義務はない)、日本が軍事的に日本よりも強力な近隣諸国に対処し、機動できる余地を与え、米国の太平洋における戦略的な役割を支持することである。日米両国は、世界の先進民主主義工業国として、国際経済問題とその他の国際、地域問題に、緊密に協力しながら対処している。この中には、核拡散防止から、北朝鮮の核開発計画への対応、中国における政治的弾圧、カンボジアの和平推進努力まで、さまざまな課題が含まれている。


高まる日米緊張感
 日米間の緊張関係は、この25年間に著しく増大した。その核心にあるのは、日本の企業に対して米国が持つ経済競争力に関する懸念である。日本企業は、日本市場への外国からの参入規制やその他の不公正な商慣行のため有利な立場にあると見られている。1960年代半ば、米国の繊維及び家電メーカーが日本製品の輸入を訴えた。その後、米国の自動車、鉄鋼、及び先端電子製品メーカーは、それまで米国製品が独占していた市場で日本製品の占有率が増加していくのを目の当たりにした。一方、冷戦が終結し、ソ連が崩壊すると、日米同盟の戦略的な支柱のいくつかの存在意義が問われるようになった。

 日米間の相互交流、通信、相互依存が高まるにつれて、評論家たちの関心は広範な政策問題に注がれるようになった。日本の商慣行、外交、安全保障、環境対策、その他日本の社会、経済、及び政治のさまざまな側面が、日本に批判的なアメリカ人達によってたえず否定的に論じられている。日本では、米国が持つとされる社会的、経済的及び政治的な弱点を公に批判しようとする評論家の数が増えつつあり、その中には政界の有力な指導者達も含まれている。


日米通商・経済問題

 日本はカナダに次ぎ米国にとって最大の貿易パートナーである一方、米国は日本の最大の貿易パートナーである。こうした経済的相互依存関係にもかかわらず、あるいはむしろそのために、貿易は二国間の摩擦の原因となってきた。貿易摩擦は時には日米関係全体の安定性を脅かすこともあった。二国間の関係を煩わせてきた主な問題は2つに分類できる。そのひとつは、米国が抱える永続的な対日貿易赤字に表わされるマクロ経済面の不均衡であり、もうひとつは、米国メーカーの日本市場参入問題である。

 1994年末現在、米国の対日貿易赤字は約656億ドルにのぼり、過去最高額となった。1995年末までには、この赤字は593億ドルまで減少した(表1を参照)。

表1:米国の対日貿易額 1987―1995
(単位:10億ドル)
___________________
年度   輸出    輸入  貿易収支
___________________
1987  27.8   84.6   −56.8
1988  37.7   89.8   −51.8
1989  44.5   93.5   −49.1
1990  48.6   89.7   −41.1
1991  48.1   91.5   −43.4
1992  47.8   97.4   −49.6
1993  47.9  107.2   −59.4
1994  53.5  119.2   −65.7
1995  64.3  123.6   −59.3
___________________________________________________

出典:米国商務省国勢調査局、トレードネット検索システム。
輸出はf.a.s.(船側渡し)価格に基づいて評価された総輸出額。
  輸入は関税に基づいて評価された総輸入額。

 

 米国の通商政策当局者は、主に米国の産業と投資家が直面している日本市場の参入障壁に注意を集中してきた。日本は、例えば高関税をかけたり、輸入割当制を敷いていない点で保護貿易主義国ではないが、米国産業界の苦情によれば、日本の規格や規制、「国産品優先」調達や地元企業との系列関係、といった構造が、日本市場で米側の考える公正なシェア獲得努力を阻害しているとされている。米国は、建設、半導体、自動車部品、電気通信機器、スーパーコンピューターといった多数の分野で日本が市場を開放するよう、何度か二国間の協議に持ち込んだ。大抵の場合、日本は障壁の削減に合意したが、それは米国による制裁措置、または米国議会による保護貿易手段という脅しがあった後のことである。しかし、合意達成後も、日本側が合意内容を遵守しなかったとする米国側のクレームのため、両国とも問題の再協議をしなければならないことがしばしば起こった。

 クリントン大統領の対日通商政策の目玉となっているのは、対日通商協議において、測定可能な結果の達成に重点を置くことである。同政権は、日本との包括経済協議のもとで、「結果重視」の通商政策を推進しようとした。

 包括経済協議は、1993年4月にクリントン大統領が提案、同年7月の宮沢首相との日米首脳会談で合意された。これにより将来の経済協議のための「ルール一式」が設定された。包括協議には、日米通商・経済関係にとって、重要だが場合によっては問題となり得る措置が含まれている。

 包括協議では、日米関係の現在と将来の課題を次の5つに分類している。すなわち、1)政府調達 -- 日本政府による外国製品とサービス、特にコンピューター、スーパーコンピューター、衛星、医療技術、及び電気通信機器の調達を拡大すること、2)規制緩和及び競争政策 -- 外国製品及び金融、保険を含むサービスの輸入を阻害してきた日本の法律、規制、及び行政指導の改革、3)その他の主要分野における貿易 -- 自動車・同部品を含む、4)経済的な調和 -- 外国からの対日及び対米直接投資、知的所有権の保護、技術へのアクセス、買手と納入業者の関係(例えば系列)に影響を及ぼす問題、5)既存の協定及び対策の実施 -- 日米構造協議(SII)の合意など。

 包括協議で、米国と日本は、問題によっては6ヶ月、12ヶ月以内といった特定の時間枠内で協議することで合意した。さらに、協定の合意内容が質的にも量的にもどこまで実施されているかを測定できる「客観基準」の導入を規定している。また、大統領と首相は、年2回会談し、進捗状況を点検、発表することで合意した。

 包括協議のもとで、日本はその経常収支黒字の「極めて顕著な削減」を達成するとともに、「中期的に」外国からの輸入の「顕著な増加」を促進するために必要な措置をとることに合意した。また米国は、財政赤字の「大幅な削減」と、国内貯蓄率の引き上げ及び国際競争力の強化に向けて対策をとることで合意した。包括協議の合意では、両国が世界的な問題の解決に協力することを義務付けている。これらの問題には、環境保護、技術開発、人的資源開発、人口増加の抑制、及びエイズ対策が含まれている。

 包括経済合意では、「客観基準」の定義の問題や「日本の対外黒字の極めて顕著な削減」など未解決の重要な点が残っており、これが包括経済協議での重大な問題となっている。米国は、どの協定にも市場占有率のような数値指標の設定を強く主張してきた。一方、日本は「管理」貿易または「結果重視」の通商政策には強く反対してきた。

 1994年2月11日、クリントン大統領と細川首相は最初の点検会合を行ったが、何の合意も得られなかった。大統領は、経済関係を政治・安全保障関係から慎重に分離する一方、通商関係に進展がないことを繕うのはやめるべき時がきたと指摘。細川首相は、進捗度を計る数値目標の設定は管理貿易になるとして、拒否した。
また同首相は、冷却期間を設けた後に交渉を再開することを提案した。

 1994年5月24日、話し合いを重ねた結果、日米両国は包括経済協議を再開すると発表した。同年10月1日、カンター米通商代表は、日本政府による米国の医療機器・技術、電気通信機器・技術の調達(65%国有のNTTによる調達を含む)及び日本の保険市場への参入で、両国が合意に達したと発表した。板ガラスの市場開放合意は、1995年12月12日に発表された。自動車・同部品に関する交渉は物別れに終わった。

 カンター代表は、通商代表部としては、自動車部品の補修市場に関する日本の商慣行につき、米通商法301条に基づく調査を開始すると発表した。この問題は5月になってエスカレートし、米国は59億ドルの対日制裁方針を決定、これに対し、日本はWTOに米国を訴えたが、結局、1995年6月28日に合意が成立した。

 クリントン政権は、対日通商関係の焦点は包括協議で成立した協定を、日本が確実に実施するかどうかにあるとしている。しかし既にいくつかの問題が発生し、状況が多少緊迫している。日本の写真フィルム市場開放をめぐる紛争が1995年半ばに始まり、米通商代表部が301条に基づいて調査中である。さらに、1991年に締結された日米半導体協定が1996年7月31日に期限切れとなる。米国側は同協定の更新を要請したが、日本側はこの協定は既にその目的を果たし、新たな協定の必要はないと主張している。(日本の半導体市場における外国製品のシェアは1995年末で29%に達した。)


日本の国内経済問題

 不動産や株価の高騰を特色として1980年代末頃の急成長をもたらした日本のバブル経済は、1991年の景気後退を期に崩壊した。経済学者の多くは、日本経済は基本的に健全であり、引き続き回復していくものと考えている。経済の回復テンポは非常に緩慢で、1994及び1995年度の成長率は約1%に留まった。1996年度の成長率予測は年率2ないし3%程度である。

背景: 
 現在日本経済が直面している問題は、主として1980年代に政府がとった経済・財政政策に起因している。大蔵省が資本流出を含め金融界に対する規制を緩和しつつあった矢先、日本政府が一連の通貨及び財政政策をとった結果、1980年代の投機的なブームと90年代の失速状態を引き起こす要因となった。これらの政策は海外への資本流出の急増をもたらし、円・ドルレートは1980年から1985年の間に50%近く上昇した。

 日米両国は、ドルの価値を引き下げ、経済政策協調を進めるため、1980年代に多数の非公式な取り決めを結んだ。これらの取り決めにしたがって、日本は政策協調の柱として通貨政策に焦点を当てるとともに、国内の金利を低減するため、マネーサプライ(通貨供給量)の増加率を高めることで同意した。同取り決めにより、国内のマネーサプライの増加率が押し上げられ、結果として日本の1980年代後半の投機的ブームの種をまくことになった。

 それに続いたのが、経済拡大と資産価格のインフレの時期で、これは日本の現代史上かつて見られないほどの規模であった。「バブル経済」といわれるこの時期は、マネーサプライの増加率が高まったことが特徴で、不動産や株式の投機的ブームにより、例えば日本の6大都市における住宅用地の価格が1984年から1990年の間に3倍にも跳ね上がったほどである。

 この投機的ブームは、1990年と91年に、大蔵省がマネーサプライの増加率を低減し、公定歩合を徐々に6.0%なみに引き上げたため抑制された。しかし、1991年の後半に入るまでには、大蔵省はこれらの政策の手綱を緩めはじめた。1992年、与党自民党が景気回復を目指して2つの経済刺激策を策定した。1993年と94年中、日本政府は経済回復を促すため、追加的な刺激策を講じた。



先行きの予想: 
 周期的な景気後退がどの程度広範に経済に影響したかについては意見が分かれている。経済学者の中には、景気後退はほんの短期的な影響しか持たず、日本の経済は1990年代半ばまでには、再び急成長を始められる程に回復するとの意見がある。反面、今回の景気後退は、終身雇用の保証のような、戦後経済を支えた構造的な要因のいくつかを変えた点で、経済に永続的な影響を与えたとする識者もいる。


科学技術問題

 科学技術問題は、現在進行中の包括経済協議において、中心的な役割を果たすかもしれない。同協議の政府調達などの分野では、先端技術や重要な技術の移転、貿易が多分議題に上るであろう。また革新技術(例えば新素材)を取り入れる自動車のような製品の貿易も議題となろう。同協議以外でも、日、米、EU間で、IMS(知的生産システム)という企画が提案されている。IMSの目的は、生産システムに関する知識の増大と科学技術分野での国際協力の推進にある。

 日本の研究開発の80%以上は産業界で行われている。しかし最近の日本における景気後退のため、技術の革新や商品化に対する投資が鈍っている。通産省によれば、製造業の研究開発費は1992年度に5.6%減少し、1993年度にはさらに1.9%の低下が見込まれている。米国では、研究開発全体の約51%が製造業によって占められているが、全米科学財団(NSF)の報告では、製造業の研究開発に対する投資は、僅かではあるが1992年度に0.96%、 93年度に0.98%とそれぞれ増加している。(研究開発費の総額を比べると、米国は日本の2倍近くである。)このような比較は、為替レートや会計年度・暦年の違いに左右され、必ずしも長期的な傾向を指すとは限らない。

 しかし、日本の産業界での研究開発投資の減退は、日本企業がこの景気後退から回復した後、米国を含む主要な海外の競争相手に比べて研究開発資源が少なくなることを示しているとも言える。反面、日本企業は、この景気後退を切り抜ければ、スリム化し、小回りが利き、進行中の技術革新をすばやく活用できる体質を備えるようになるともいえる。そうはいっても、昨今の米国の「技術政策」に関する提案は、日本の技術開発や技術の商品化での成功例に基づくものが多い。したがって、米国の政策当局者は、日本の研究開発に対する資金の供給と支援体制の変化には十分注意を払う必要があると考えられる。

日本の政治問題

 保守的な自民党の総裁でもある橋本首相は、1993年7月以来4人目の首相である。首相は、中間から左よりの社民党(旧社会党)及び中間政党で少数派の新党さきがけとの脆弱な連立政権を率いている。橋本政権は、自民党が1993年7月の総選挙で単独過半数獲得に失敗して以来4つ目の連立内閣である。最初2回の連立内閣は、それぞれ細川首相(1993年8月から1994年4月まで)と羽田首相(1994年4月から1994年6月6日まで)に率いられたが、自民党は含まれていなかった。しかし、自民党は、1994年6月、旧社会党と「不自然な」連立を形成することで政権を奪回した。1996年1月、橋本氏は、リーダーシップにもビジョンにも欠けて「無策」といわれた旧社会党の村山首相(1994年6月から1996年1月まで)から政権を受け継いだ。

 橋本首相は今、自民党の単党支配で38年間安定して続いた政権が1993年に崩壊した後の、不確実な政治的過渡期の真っ只中にいる。首相がまず果たさなければならない仕事は、連立パートナー、特に衆議院で過半数を維持するために必要な社民党との微妙な政治的調和を保つことである。こうした制約下で、首相は社民党との政策上の差異、特に日本の「平和憲法」や防衛という難しい問題をめぐる違いを表に出さないようにしていると見られる。

 それ以外に、橋本氏が関心を持っているのは、1997年7月に衆議院議員の任期が満了になる前に、次の総選挙の機会をねらうことである。1994年に国会で可決された政治改革法案のもとで初めて行われるこの選挙は、今のところ、1996年10月から1997年1月までの間に行われると見られている。この法案の目玉は、511ある衆議院議席の選挙方式の大幅な改革である。従来、1区から複数(2〜6人)の議員を選出する129の選挙区で構成されていたのが、新しく総数300議席の小選挙区(1区につき選出議員が1人)と200議席の比例代表制を組合わせた制度に変わることになる。専門家の間では、次回の総選挙は、結果如何にかかわらず、現在進行中の政界再編成を加速し、日本を2つの「保守主流政党」が支配する2大政党制に近づけるものとみられている。

 予期しない事態が起こらない限り、この2大保守政党は、多分自民党とそれに挑戦する新進党となるであろう。1994年12月に結成され、有力な保守派の政略家である小沢一郎氏が現在率いる新進党は、細川、羽田両連立政権の中核を構成した、中間ないし右寄りの4つの党が合流したものである。(この4党は、羽田氏と小沢氏が共同で率いる新生党、宗教運動に連携し、小沢氏と提携している公明党、細川氏が結成した日本新党、および中間より右寄りで1960年代初頭以来、社会党から分裂した民社党である。)この4党合流は、長い間待たれていた政界再編成の始まりを表すものと思われる。

 次回の総選挙では、自民党と新進党で衆議院の議席の大部分を獲得すると見られているが、いずれも過半数を勝ち取る見込みは薄そうである。もしそうなれば、日本はまた連立政権を持つことになり、いわゆる「保・保」(自民党・新進党)連立の実現の可能性が出てくる。それに代わる可能性といえば、社民党と新党さきがけが自民党と合わせて議席の過半数を獲得できるものと仮定して、現在の3党連立の継続が考えられる。

 橋本政権が、直面するいくつかの課題をいかに効果的に処理するかによって、次の総選挙の結果が決まってくる公算が大きい。こうした課題には、住専7社を公的資金で救済しようという極めて不人気な政策や、景気回復、規制緩和、行財政改革に対する連立政権の計画、および橋本首相が1996年4月半ばのクリントン大統領との首脳会談で合意した通り、米国との安全保障体制の再定義・強化(沖縄の米軍基地の縮小を含む)の約束などがある。同首脳会談で、橋本首相は「日本の周囲の地域、特に朝鮮半島で何等かの事態が起きた場合」、日本がいかにして米国を支援するかについて検討することにも合意した。橋本首相の行動は、日本が海外の紛争に巻き込まれそうな糸口を作ることにさえ反対する社民党とその他の「護憲論者」から消極的な支持しか得られなかった。

 米国から見れば、政界再編成・改革後の政党システムは、ゆくゆくは日米両国の関心事である消費者重視、生活の質、貿易、日本が求めている新しい、より明白な世界的役割等の課題に一層よく取り組めるような政治機構の実現につながるであろう。しかし、短期的に見ると、日本の政治的な過渡期が不透明な状態にある間は、日本の政界再編成から得られる経済的な利益は限られたものになると思われる。官僚機構、特殊利益集団、労働組合といった、従来の提携相手や有権者の支持を得ようとして、橋本連立政権のパートナーは、用心深く現状維持の方針をとる可能性が高い。政治評論家は、日本が安定した効果的な2大政党制を持つには、少なくとも2回の総選挙が必要、すなわち約10年かかるであろうという点で意見が一致しているようだ。

 
安全保障問題 -- 外交政策の違い

 米国議会と大統領府の政策担当者は、広範囲にわたる日米安全保障関係に関連するコストと利益の調整に関心を抱き続けている。日本に駐留する米軍(人員47,000人、年間費用80億ドル以上)の存在は、対日関係はもちろんのこと、東アジア地域(例えば有事の際、在韓米軍の補強)、特にロシアと中国をめぐる世界規模での米国の国益を維持している。

 日本政府は、在日米軍経費を年間約50億ドル負担し、コスト面での援助をしている。また日本は、同国から1000海里内のシーレーンの防衛を分担しており、そのため、米軍はアジアその他の地域にわたって、さらに柔軟性のある展開ができるようになった。日本の防衛予算は、退役軍人に対する手当を含むNATO(北大西洋条約機構)方式に基づいているが、年間約500億ドルで、世界で第2位の規模である。1993年3月に可決された日本の93年度の防衛予算は、前年度比2%増と過去33年間で最低の増加率であった。94年度の防衛予算は前年度比1%の増加をみた。1995年に可決された日本の防衛計画には、在日米軍経費を援助するホスト・ネーション・サポートの多少の増加、及び長期的には日本の自衛隊の規模を大幅に削減する努力が含まれている。

 米国議会は、日本が防衛費に自国のGNP(国民総生産)のほんの一部(1%以下。米国は4%)しか割いておらず、同盟国としての役割分担に関しても反応が鈍いように見える点について、時に不満を述べてきた。1990年末、連合国がイラクと衝突して米国が日本に支援を求めたとき、日本の対応が緩慢かつ限られたものであったことで、日米間に緊張が高まった。米下院は、日本政府が在日米軍の直接経費を全額負担しない限り、日本から米軍を部分撤退させることを要求する法案(H.R.5803)を可決した。しかし一方、米国議会内で同盟国間の役割分担に対し関心を持つ議員の中には、日本は、同盟国中、最も熱心なホスト・ネーション・サポート国であると賞賛する者もあった。

 日本は、北朝鮮の核兵器計画防止に関する1994年10月21日の米・北朝鮮合意実施に必要な数十億ドルの経費分担で、米韓両国と緊密に協力している。日本は現在、米国と協力して、北朝鮮のミサイル攻撃に対する防衛体制整備に関心を持っているが、これは1994年の米国議会の国防予算権限法案に盛り込まれた、「米国の戦域ミサイル防衛体制の恩恵を受けている同盟国は防衛費を一部負担すべきだ」とする条項と一致するものである。最近では、日本の新国産ジェット戦闘機FSXの共同開発をめぐって、米国からの対日技術・ノウハウ移転提案に対して、米国議会に、日本は十分な見返りを米国に与えずに、米国の技術・ノウハウを利用するのではないかという強い懸念が起きている。

 日本が最近、国連平和維持活動に積極的な役割を果たしていることは、米政府も非常に歓迎している。また日本は、経済援助を通じて連合国の安全保障に貢献していると主張している。長年、日本は対アジア援助額では世界第1位であり、最近では世界全体への援助額でも最大となった。米議員の多くは、カンボジア、旧ソ連、ウェストバンク(イスラエル・パレスチナの紛争地帯)その他の地域において米国が支援している多国間援助構想に日本が主要な責任を果たすよう望んでいる。評論家達は、日本の援助はしばしばインフラ・開発プロジェクトの形で行われるため、被援助国では大量の日本製品とサービスの購入が必要になるなど、日本産業の発展に役立つようになっていると批判している。

 冷戦後の情勢分析を受けて、日本、特に沖縄では、活動家や政治家が、米軍が使用している土地の返還と基地周辺の住民の生活を乱す夜間離着陸等の米軍活動の制限を強く要求している。1995年と96年にわたって、クリントン政権と日本政府の指導者は、沖縄問題を含む日米安保関係について、広範囲な見直しを行った。
しかし、こうした努力も、在沖縄米軍兵士が関与した婦女暴行事件や、日本国民の間における沖縄の米軍基地の整理・縮小を求める圧力の高まりによって、困難に直面している。1996年4月の首脳会談において、クリントン大統領と橋本首相は、在沖縄米軍の整理・縮小と住民への影響を減らすことを目的とした中間報告書を公表した。

外交政策: 
 日米両国は、(朝鮮半島の安定等)各種の重要な国際問題に関して緊密な政策協調を保っているが、最近多くの外交問題で、日本はかなりの独立性を示すようになっている。日本は、米国が望むほどには対ロシア援助に積極的ではない。また、米国は中国をはじめとする対アジア政策で人権に重点を置いているが、日本は異なる立場をとっている。さらに、米国は対ベトナム禁輸を続けているが、日本は積極的な援助計画を実施した。これら一連の活動は、日本の国益と米国の国益が異なることから生じている。日本はロシアとの間に領土問題をめぐる紛争があり、エリツィン改革をあまり信用していない。日本は、中国では経済改革が進むにつれ、人権問題も解決の方向をたどると見ている。また日本は、成長著しいアジア経済圏にベトナムを統合させることに熱心である。こうした日本の独自の行動は、米国の同意を得られないにもかかわらず、日本が米国と異なる行動をとろうとする意思の現れである。日本は一方、1994年9月27日、国連に対して国連安全保障理事会の常任理事国入りを正式に要請、米国もこれを支持している。


米国の対日政策アプローチ

 米国が、国際政治及び地域安保上の政策に対する日本の支持を保ちながら、対日貿易赤字を削減させる必要があるという点では、政党、イデオロギーや特殊利益集団への所属の有無にかかわらず、米国民の意見は一致している。こうした目的の達成方法をめぐる違いは次の要因から発している。すなわち、通商・経済関係で政府が果たす役割に関する考え方の差異、労働組合や業界の思惑、地域利益に絡む特殊利益誘導政治、日本に対する最良の影響力行使に関する戦術的な違いである。

 1996年5月現在、米国の取るべき対日アプローチに関して、以下に述べる3つの考え方がうかがえる。どのアプローチも、現在の米国の政策に完全には一致しないが、現在行われている対日政策論争には3つのアプローチの要素が認められる。
そのうち少なくとも2つ、すなわち最初と最後のアプローチは、目下のところ日本の政治体制に意思決定能力をあまり期待できないという判断に基づいている。

 米国及び日本の政策専門家の一部が推しているアプローチは、日米間の全体的な関係を最近に比べてもっと強調するというものである。これは、現在の日本の不安定な政治情勢に照らし、日本国民の明白な支持を得られないまま米国の要求を容れることは、今の日本政府には不可能であるという米側の認識に基づいている。このアプローチによると、反米的な世論をさらに掻きたてたり、米国との重要な政治・安保関係を損なうような通商上の対立や政治的に微妙な問題は避けることになる。
この立場をとる人は、クリントン政権が過去2年間に、基本的に重要な貿易合意を多数成立させることに成功した点は評価するが、反面、合意に至る過程での長びいた論争のため、貿易だけでない、より広い米国の国益が損なわれ、政治家や官僚の間の対日強硬派の政治的な基盤を強化したとしている。

 日米貿易問題をめぐって、弱い日本政府との対決の度合を減らすことを望む人達は、今の米国にとって市場開放協定よりもっと優先度の高い関心事があると主張している。例えば、米国が市場開放圧力を強めれば、それに対抗するため日本は他のアジア太平洋諸国との事実上の同盟・提携に走ることになりかねず、むしろ、APEC(アジア太平洋経済協力会議)等の組織を通じた地域的な貿易障壁の撤廃に関する多国間努力を、日本が支持し続けるようにすることの方が重要であるとしている。このアプローチに賛同する人々は、日米両国は、互いに地域、政治、及び安全保障の面で今後ともパートナーであることは当然であるとしている。しかし、日本国内では米国の対日通商要求に対し不満が募っており、在日米軍の維持費や不便に対しても抵抗が増加しているだけに、今まで通りの姿勢を日本が保つと期待すべきでないと警告している。

 第2のアプローチは、過去2年間のように、通商関係に引続き重点をおく一方、政治・安保上のきずなは両国政府が実利的に維持することを期待するものである。このアプローチは、フィルム、保険その他の分野で日本の貿易障壁を取り除き、半導体協定の延長を目指す追加的な協定の成立に的を絞るものとなる。また、このアプローチは、外交政策の専門家よりも、通商スペシャリストや米国の特定産業の支持者の間で人気が高い。現在のところ、このアプローチには少なくとも次の4つの欠陥がある。1)大統領府が消極的な姿勢を示している、2)中国と北東アジアにおける安保情勢に関する懸念の増大、3)縮小しつつあるがなお膨大な対日貿易赤字、4)米国の多くの対日要求に対し、ひるまず抵抗することに政治的な将来を賭けようとする橋本首相の姿勢である。

 第3のアプローチは、日本に対し引続き市場開放協定を要求するものである。ただし、異論のある数値目標には余り重点をおかず、米国の政策対象を、日本から他のアジア太平洋地域に移そうというものだ。このアプローチの支持者は、膨大な人口を抱え、経済が急成長中の日本以外のアジア太平洋地域における米国の貿易拡大は、対日貿易に比べ今後も伸び率が高いだけに、アジアの高度経済成長諸国が今後、日米経済競争の新しい戦場になると見ている。

 このアプローチを支持する人達は、故意に日米の対抗意識をかきたてるわけではないが、米国には、より有利な市場機会を日本近隣のアジア諸国に求めるという選択肢があることを日本に気づかせることが有効だとしている。他方、国際政治及び安保問題に関しては、それぞれ自国の利益にしたがい、米国は今後も日本の協力を期待できるとも主張している。すなわち、自己主張を一段と強め予測が困難になってきた中国と、朝鮮半島における紛争回避と核拡散防止が、日米共通の大きな関心事であることに変わりはない。こうした具体的な国益に直結した関心事を考慮すると、日本は今後も米国と政治・安保上の協力関係を維持せざるをえないとしている。

 1996年半ばの時点では、クリントン政権は安保関係の強化と貿易問題での控え目な対処によって、第1のアプローチに傾いているようにみえる。大統領府は日本との貿易問題を軽視していないといっているが、1996年4月17日の東京でのクリントン・橋本会談では、明らかに優先事項について変化が見られた。同会談では、世界及び太平洋地域でのパートナーシップを強調した日米両国民への共同メッセージと、21世紀に向けての日米安保同盟に関する共同宣言の2つの文書が目立った。懸案の貿易問題はほとんど言及されなかったといわれている。多分日米両国で差し迫った選挙をにらんでの実利的な対応であろうが、大統領府は最近になって対決の姿勢から後退して、未解決の懸案よりもこれまで合意した交渉の成果を強調している。

 米国議会は米国政府の対日アプローチを牛耳ることはできないが、貿易、技術、国防その他の政策分野で権限を持ち、活動もしており、日米両国政府とも政策立案の背景として、これを考慮しなければならない。議会は、日本その他の貿易パートナー及び大統領府に対して、立法過程を通じて圧力を加えることができる。また議会は、在日米軍の規模、予算に関する決議を通じて、日米政治・安保関係に影響を及ぼすことも可能である。


法案と決議
 
下院H.R.2002(Wolf議員提出)
  運輸関係歳出予算法案。8月9日に上院で追加された、日本が日米航空協定に「違 反」したと批判する修正条項を含む。1995年8月10日、上院を通過。

下院H.R.2936(Chapman議員提出)
  日本を含む米国の同盟国に対し、当該国に駐留する米軍の「直接経費総額」の補償を求める。1996年2月1日提出。

下院H.R.3230(Spence議員提出)
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