「日の丸」「君が代」強制の日本

 学校現場で愛国心の評価を行っていると言うことが報道されはじめといる。私は良識ある学校現場では「教育基本法の改正」ができていないので、現段階では通知表などで評価されるはずはないと思っていた。しかし現実は違うようである。文部省の学習指導要領に基づき、全国の多くの学校で「愛国心の評価」を行っているようである。富山県の魚津市でも今まで行われてきたとの報道があった。

 愛国心とは何だろうか。国を愛する心だからすべての国民が持っており、又持っていない。国が国民一人一人を大切にすれば「大切な、なくしてはならない国」と考えるだろう。つまり「愛国心」が高まる???

 だが通知表で五段階評価するのはどのようにおこなうのか「根拠」を明らかにしてほしいものである。つまり基準や「ものさし」を明らかにしてほしいものである。

 教育委員会や学校の先生は未来を担う子供の教育者であるから、立派な人達ばかりだと思っていた。しかし上記のようなことを進めるようでは教員失格・教育委員失格である。

 私も体験したことがある。ステージに登り「日の丸」にお辞儀をしてから演台に進むのである。観客に尻を向けたその姿は滑稽であり、内心笑ってしまったことがある。しかも「うやうやしく」である。「日の丸」の影に誰かいるのだろうか。不思議な光景ではある。誰でも布切れにいちいち挨拶していたら身が持たない。もしかして「洗脳」されているのだろうか。認知症の婆さんのほうがまともである。

 頭のいい人ほど「悪いことをする」という私の持論がここでも証明されている。頭のいい人と言うのは単に学歴だけのことである。人間性の問題ではない。東大卒業に近づけば近づくほど悪いことをする。これは一般論としては正解でなかろうか。

 「心の問題」はあくまでも心の問題であり誰にも関与できない。誰も評価をする権限は持たない。また心は変化する。戦争賛成論者が反戦になる場合もある。その逆もあるだろう。いずれにしても「心の問題」は評価できないのである。(例外は小泉である。「靖国参拝は心の問題」と言いながら政治問題化させ、政治的パフォーマンスを行い、東南アジア諸国に緊張と反発を招いている。あくまでも「心」の問題に留め、総理大臣の立場では参拝してはいけない。)

 日本政府と教育委員会・教育審議会は何故ここまで狂ってしまったのだろうか。これも小泉改革なのであろう。とすれば小泉改革は日本列島破壊者である。彼らは生きる自由を奪い、さらには「心の問題」の自由さえ奪おうとしている。これでは日本国民は奴隷以下である。

 「日の丸・君が代」問題も同様である。この問題も「心の問題」であり、これを形など目に見える形にすることはできない。一人一人の心の中で「君が代」を歌い、心の中で「日の丸」を掲揚しておればよいのである。

 日本に民主主義が存在するかどうか問われていく。国民はしっかりと監視しなければならない。無党派層だと喜んでいてはいけない。いつの間にか戦争に参加させられ、後々、こんな筈ではなかったと「泣き」をみることになるだろう。


国旗及び国歌に関する法律
(平成十一年八月十三日法律第百二十七号)

(国旗)
第一条  国旗は、日章旗とする。
2  日章旗の制式は、別記第一のとおりとする。

(国歌)
第二条  国歌は、君が代とする。
2  君が代の歌詞及び楽曲は、別記第二のとおりとする。

   附 則

(施行期日)
1  この法律は、公布の日から施行する。
(商船規則の廃止)
2  商船規則(明治三年太政官布告第五十七号)は、廃止する。
(日章旗の制式の特例)
3  日章旗の制式については、当分の間、別記第一の規定にかかわらず、寸法の割合について縦を横の十分の七とし、かつ、日章の中心の位置について旗の中心から旗竿側に横の長さの百分の一偏した位置とすることができる。


教基法改悪を廃案へ-荒廃の原因明らかにする闘いを

 教育基本法改悪案は継続の方向だが、秋の臨時国会までの間、与野党とも頭を冷やし、教育の危機的状況をもたらした原因と背景について討論を深めるべきだ。いま必要なのは、基本法の改「正」ではなく、教育荒廃を招いた真の原因を直視することだ。

〃公教育解体〃宣言
日本経団連が4月に発表した「義務教育改革についての提言」は、日本の財界が教育に求めているものが、公教育の徹底的な解体であり、それが子どもたちの個人の尊厳と学びの営みを破壊するものであることを示す。

 経団連は、義務教育を「多様性・競争・評価」の観点で抜本的改革せよとし、「改革の足取り」が遅いと批判する。そして、当面の重点として学校選択制の導入、学校・教員評価の実施と公表、「教育の受け手の選択を反映した学校への予算配分」の3点を挙げる。

 この3点を進めるための具体策として、学校の自己評価・外部評価、評価への生徒参加、教員評価に基づく職能等級制度の導入、全国学力調査結果の学校ごとの公表、評価を反映した学校予算の傾斜配分などを提案する。そして、この提案の根拠として学力面での公立学校に対する不信感と学校選択制への期待の高まりがあるとする。
教育に市場原理を適用して義務教育の段階から教育費の自己責任化と競争をあおり、その競争を担う教師たちにも能力評価で鞭を入れようというわけだ。

 そして「義務教育だけで年間11兆円もの公金が投入されている」と批判するが、これに対して、「義務教育に公金を投入するのは当たり前」という主張を私たちは広めることができていない。

 学校選択制も学力低下論も、競争原理を強化するためにつくられたものであり、保護者の「期待」によるものではない。経団連が主張する教育改革の方向が何をもたらしているかは、不登校や高校中退の急増、教育費の高騰という事態を挙げるだけで十分である。

教師に対する包囲網
 経団連が、「学校評価で共通化すべき項目例」として挙げる保護者への質問例「行事などの運営にあたり、先生方が協力していると思いますか」「先生は学校のきまりを守るよう指導していますか」なども、教師管理のため保護者を動員した包囲網を意図している。

 最も露骨な教師対策の表明は、都教委の「教職員の主な非行に対する標準的な処分量定」(4月27日)だ。体罰、セクハラ、公金横領、飲酒運転、傷害・暴行などの「非行の種類」に職務命令違反、職務専念義務違反、職場離脱など「勤務態度不良」と、地公法37条(争議行為等)違反の「行為の企て」「遂行の共謀」「そそのかし」「あおり」など「違法な職員団体行動」を並列している。

 国歌斉唱への抵抗や教職員組合の組織的活動を、セクハラなどと同列の「非行」とみなすような対応が教育荒廃を加速させているのである。「共謀罪」の先取りも見られる。
臨時国会までの短い期間、私たちは混迷を深める教育の現状について、その責任が教育基本法の理念の実現を怠ってきた側にあることを暴露し、基本法改悪阻止に全力で努力しなければならない。


東京地裁、藤田さん処分

 平成18年5月30日、東京地裁が元都立板橋高校教諭・藤田勝久氏に対して言い渡した罰金20万円の判決は、でっちあげの検察側主張に依拠して、教育基本法改悪で愛国主義を強要しようとする動きに抵抗する教師たちに対する恫喝・みせしめの効果をねらったものだ。

判決が言う「威力業務妨害」の実際は、04年3月の板橋高校の卒業式に来賓として招かれていた藤田氏が、開式の前に会場でビラを配布し、「国歌斉唱のとき教職員は立って歌わなければ処分されます。ご理解願って、できたら着席をお願いします」と訴えたものだ。誰も制止するものはいなかった。

「事件」の名にも値しないささやかなアピ−ルだ。検察は「教頭の制止にもかかわらず」ビラを配し「大声で演説」して式を混乱させ、開式を遅らせたとし、懲役8ヵ月を求刑した。判決は、交通違反なみの罰金20万円となったが、懲役を求刑した検察の立場は、愛国心教育に抵抗する教師たちを根絶やしにしようとする政治権力、公安警察の凶暴な意思を反映している。
また、求刑も判決も偽証にもとづいている。司法としての公正さを欠いた恣意的・政治的な不当判決である。

いま政府は、大規模な米軍再編に協力して日米軍事一体化を進め、憲法・教育基本法改悪を急いである。「共謀罪」も新設しようとしている。
そして、最近特に顕著なのは、頻発しているビラ配布弾圧事件が示しているように、言論・表現の自由に対する弾圧が強化されていることである。かつての「横浜事件」に対する国家責任も不当判決で棚上げされたばかりである。板橋高校・藤田事案もこうした流れの中にある。

控訴審闘争への支援をひろげ、「日の丸・君が代」の強制に反対する運動を教育現場だけでなく、広範な国民の運動に広げることが必要である。かつて、すべての国民に沈黙と服従を強いた治安維持法体制の復活を絶対に許してはならない。

 


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