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基本的人権に関する用語解説


基本的人権=人権とは

 人が生まれながらにしてもち、国家権力によっても侵されることのない基本的な諸権利。基本権または単に人権とも。
 ブルジョア革命の過程で近代自然法思想に基づく自然権が、国家制度として確立されたもので、近代憲法の不可欠の原理である。英国の権利章典(1689年)、アメリカ独立宣言(1776年)、フランス革命の人権宣言(1789年)などはその古典的表現で、宗教・良心・思想・学問・言論・出版・身体・集会・結社・居住・移転・職業選択の自由、財産・住居の不可侵、通信の秘密や、さらに法定手続の保障や不法な逮捕・抑留・拘禁からの自由など、国家権力からの自由(自由権)を内容とするものであった。
 民主主義の発展に伴い参政権が加えられ、また資本主義の発展により社会的・経済的不平等が拡大するにつれ、特に第1次大戦以後は、人間たるに値する生活を国家に要求する権利や労働者の団結権・団体行動権、さらに教育権などの生存権的基本権または社会的基本権が加えられた(生存権)。
 日本の旧憲法は臣民の権利・自由しか認めず、しかもそれは法律による留保を伴った。現行憲法は生存権的基本権の思想も取り入れて、基本的人権の確保を基本原理とし、さらに包括的基本権として幸福追求権を設け、その保障についても法律による留保を認めない建前をとるが、他方でその保障は〈公共の福祉〉に反しない限り認められるとしている。

世界人権宣言とは

1948年第3回国連総会で採択された宣言。全文30条。市民的・政治的自由権に加えて、社会保障を受ける権利、労働権、労働者団結権、教育権、文化的権利などの基本的人権を規定。法的拘束力はないが、人類共通の目標・基準として憲法でこの宣言に触れている国家も数多くある。また、その後の国際人権規約などの諸条約の母体となった。

国際人権規約

国際的に人権の保障を定めた条約。1966年国連総会で採択、1976年発効。労働権、社会保障権、家庭の尊重や子どもの保護、医療保障、教育権などに関する社会権規約と、生命の尊重、死刑の制限、拷問の禁止、公正な裁判の保障、身体の自由、思想・表現・集会の自由などに関する自由権規約、および後者に付属する選択議定書の3者より成る。日本は1979年に前2者を批准。世界人権宣言を条約化したもの。また自由権規約の実現確保のために人権委員会が設置された。なお、1989年に死刑廃止に関する第2選択議定書が採択され、国際人権規約の一環に加わっている。


自然権とは
ラテン語 jus naturalis,英語 natural right などの訳。国家によって与えられた実定法上の権利ではなく、国家成立以前に人が生まれながらにして有するとされる権利。自然法によって認められた永久かつ絶対的な権利として国家権力によっても侵すことができない。日本の自由民権運動期には天賦人権と呼ばれた。近代ヨーロッパの社会契約説では人間が社会状態に入る前の自然状態においてもつとされ(ホッブズ)、市民革命の思想的武器となった。自由権、平等権、所有権等がその内容であり、これらが侵される場合には抵抗権,革命権も自然権として主張された。

自然法とは

時と所とを超えて妥当するとされる人類普遍の法。実定法に対する。自然法思想は古くギリシアに始まるが、その永久不変性の根底として、古代では万物の永久不変の本質、中世では神の意志、近代では人間の理性などが考えられた。実定法が一定の条件の下でのみ相対的に妥当するのに対し、自然法は絶対的な正しさを主張する。しかし自然法は国家以前のものであり、実定法のなかに組み入れられない限り強制を伴わない。グロティウス、プーフェンドルフ、ウォルフ、ホッブズ、ロック、J. J. ルソー、カント、フィヒテらを代表とする近代自然法思想は社会契約説に結実し、市民革命期に大きな役割を果たした。市民的理性とされるものが成文法化(法典編纂(へんさん))するにつれ,19世紀以降この思想は衰え、歴史法学や法実証主義にとってかわられたが、20世紀に入りその再生がみられる(ネオ・トミズムなど)。

自由権

他人の権利や自由を侵害しない限り、人が何をしても国家権力によって禁止または制限されない憲法上の保障。近世自然法思想に基づく近代憲法の基本原理である。乱用や〈公共の福祉〉に反する場合は制限される(憲法12条)。

公共の福祉

相互に対立関係を含む個々の利益を社会全体として調和させるために用いられる公平の原理であり、その内容は歴史的に変化している。起源的にはアリストテレス、特にトマス・アクイナスの思想にさかのぼる。近代専制国家では、国家権力が富国強兵をめざして国民生活を統制していく根拠とされたが、近代市民国家では、国民の市民的自由を国家権力の侵害から守ることを意味した。この自由国家的な公共の福祉は、各人の権利の衝突を調整する消極的な原理であったが、資本主義の発展に伴う社会的不平等の拡大に対し国家が社会政策的施策を迫られるようになると、公共の福祉は従来の経済的権利・自由を制限する根拠とされる。これは社会国家的な公共の福祉の理念である。日本の現行憲法は、基本的人権を公共の福祉に反しない限りで認め、居住・移転・職業選択の自由、財産権の不可侵を公共の福祉により制限する(憲法12,13,22,29条)。この規定の解釈はこれを適用する者の価値観に左右されるため、権力の意思が貫徹される危険があるという意見もある。

参政権

国民が国政に参加する権利。一般に、選挙権、被選挙権をさすが、より広くは、国民審査権・請願権や公務員の選任・解職(解職請求)権(憲法15,16条など)などをも含めていう。基本的人権の一つだが、国家権力の干渉を受けない権利としての自由権とは対照的である。近代以降,各国において普通選挙権、婦人参政権が徐々に獲得されてきた。

国民主権

主権在民ともいう。領土内のあらゆる人・団体に対する最高・絶対の支配権の根拠が国家を構成する全員(国民)にあるということ。君主主権に対する。現行憲法は国民主権を定める(前文第1段および第1条)。

選挙

一定の集団や団体が役員や代表者を選任する一方法。投票による場合が通例だが、挙手・指名などによることもある。選挙には直接選挙、間接選挙、普通選挙、制限選挙などがある。代表民主制下の近代国家では国民代表を選出する方法として普遍的に採用されている。特に重要なものは公務員の選挙であり、日本では憲法がこれについて成人による普通・平等・秘密選挙(秘密投票)を保障するとともに公職選挙法が国会議員、地方公共団体の長と議会の議員の選挙について定める。

選挙権

公務員を選挙する国民の権利。参政権の代表的なもの。日本国憲法は、公務員について、成人による普通選挙を保障している。日本国民で満20歳以上の者は国会議員の選挙権をもち、かつ3ヵ月以上同一市町村内に住んでいれば地方公共団体の長と地方議会の選挙権をもつ。欠格事由該当者(禁治産者(1999年の民法改正により成年被後見人と改称)、禁錮(きんこ)以上の受刑者)は選挙権をもたない。

参政権

国民が国政に参加する権利。一般に、選挙権,被選挙権をさすが、より広くは、国民審査権・請願権や公務員の選任・解職(解職請求)権(憲法15,16条など)などをも含めていう。基本的人権の一つだが、国家権力の干渉を受けない権利としての自由権とは対照的である。近代以降、各国において普通選挙権、婦人参政権が徐々に獲得されてきた。

秘密投票

選挙において、選挙人がどの候補者に投票したかを他に知られないようにする制度。公開投票に対する語。今日では投票の自由を確保するものとして広く諸国の選挙法の公理とされる。日本国憲法もこれを保障し、選挙人はその選択に関し公的にも私的にも責任を問われないと定めている(憲法15条)。

直接民主制

国民が直接政治的決定に参加する制度。代議制に対比。古代ギリシアの都市国家で典型的にみられた。現代国家はスイスの自治体などを除いて代議制によって運営されるのが通常だが、リコールや国民投票等の諸制度の形で一部残存している。

婦人参政権

選挙権、被選挙権など、女性が国政に参加する権利(参政権)。近代のブルジョア革命後も長く婦人参政権は認められなかった。しかし英国の E.パンクハーストらに見られるように、さまざまな形で女性の参政権を求める運動が続けられ、19世紀末以来世界各国で婦人参政権が認められるようになった。日本でも明治末期に福田英子らにより婦人参政権獲得運動が始められ、大正期に発展して1924年婦人参政権獲得期成同盟会(1925年婦選獲得同盟と改称)が成立し、市川房枝らが活躍した。しかし戦争などのためその実現は遅れ、第2次大戦後の1945年、GHQ の指示に基づき衆議院議員選挙法改正によってようやく女性にも参政権が認められ、1946年には女性が選挙に初参加、39人の女性議員も誕生した

フェミニズム


ラテン語のフェミナ femina(女性)から派生した言葉で、20世紀に入ってから広く使われ、女性運動や女性論全般を意味するようになった。そこから過去の時代にも遡って用いられるようになり、フェミニズムを女性の手になる女性解放の思想・運動と定義した場合、それは20世紀だけにとどまらない、長い歴史をもつものであることが明らかになっている(女性史)。すでに中世にビンゲンのヒルデガルトのような先駆的なフェミニズム思想家が存在したが、18世紀フランスの人権思想と、19世紀の先進工業国における産業革命の進展により、新しい労働環境の中での女性の権利獲得がより緊迫した問題となって、フェミニズムは社会運動としての広がりをもった。その後、フェミニズム運動は19世紀後半から20世紀前半の〈第1波フェミニズム〉と、1960年代後半から1970年代の〈第2波フェミニズム〉という2回の高潮期を迎えた。〈第1波〉には、女性(婦人参政権)運動や女権運動に代表されるように、法における男女平等の実現に運動の力点があった。日本では青鞜社、婦人矯風会、新婦人協会、赤瀾会などの団体がつくられ、婦選運動、廃娼運動、女子労働の改善、母性保護の要求(母性保護論争)、女子教育の推進などの運動が展開された。しかしその後に起きた二つの世界大戦はフェミニズム運動にもさまざまな影響を及ぼした。サフラジェットに見られるような女性の権利獲得運動と戦争協力の問題や従軍慰安婦問題は、戦争期のフェミニズム運動についての再考を迫っており、また今後の重要な課題ともなっている。戦後の沈滞期を経て、やがて世界中に広がった〈第2波〉は、ウーマン・リブと呼ばれる新しい運動形態をもった。ここでは、〈第1波〉における法的要求のほかに、目に見えにくい日常的な性差別の撤廃もまた、女性解放の実現に向けて必要不可欠であると考えられるようになった。この認識を受け、現在ジェンダーなどの視点からさまざまな分野における家父長制的・男性中心的な前提の問い直しと女性原理の新たな構築が行われている(女性学)。また,フェミニズムはこれまで近代の枠組みのなかで展開され、もっぱら先進工業国の女性の問題に焦点を合わせてきたが、それでは地球上のすべての女性の多種多様な現実を理解することはできないとの反省から、差異を認めるゆるやかな連合の形態に向けて、現在も模索が続けられている。

ジェンダー


セックス sex が生物学上のオス・メスであるのに対して、社会的・文化的につくられる〈男らしさ〉〈女らしさ〉のこと。男女の性役割や行動様式、外見、心理的特徴をいう。たとえば小さな子どもは、〈男の子は泣かないものだ〉〈女の子みたいにめそめそしてはいけません〉と叱られることによって、社会のなかで一般的なジェンダー観というものを知り、それに従ってふるまうことを学習する(これをジェンダー・アイデンティティの形成という)。ここで問題なのは、一方のジェンダーがもう一方のジェンダーの反対でなくてはならないかのように考えられたり、ジェンダーによって二重基準が適用される場合(たとえば、男の子は少しくらい乱暴でもよいが女の子はだめ、というような場合)である。このようなジェンダー観がどのように男性中心社会を支えているかの解明が、女性学やジェンダー研究などの課題となっている。


人権宣言

正称は〈人および市民の権利の宣言〉。フランス革命初期の1789年8月26日憲法制定国民議会が可決したもの。前文と17条からなり,人間は生れながら自由・平等であり、人間のもつ自然権として自由・財産・安全および圧制への抵抗をあげ、さらに主権在民、自由権と法の原理、法定手続保障、思想・言論・出版の自由、武力、租税、法の前の平等、三権分立、財産権の不可侵などを定め、のち1791年憲法に前文として付された。信仰の自由や労働者の団結権などは除かれていたが、自然法の思想に基づく市民社会の原理を確立したものとして、アメリカ独立宣言とともに、その影響力と歴史的意義は大きい。

名誉革命

17世紀末英国に起こった革命。王政復古体制の下で反動化が進み、ことにジェームズ2世の国王大権の乱用、カトリック化の推進で国民の不満が高まった。1688年議会の指導的政治家が結束して、王の長女で新教徒のメアリーとその夫のオランダ統領オレンジ公ウィリアムに救いを求めた。ウィリアムは軍隊を率いて上陸し、ジェームズ2世は戦わずしてフランスに逃亡。1689年仮議会は、ウィリアムとメアリを共同統治者(ウィリアム3世、メアリー2世)に推し、即位の条件として権利宣言を承認させ、これを権利章典として制定、議会を中心とする立憲君主制が樹立された。無血で成功したところから、名誉革命と称された。

権利章典

名誉革命直後、英国仮議会が起草し、ウィリアム3世とメアリー2世の共同統治の条件として提出した〈権利宣言〉を1689年、法律として制定したもの。〈臣民の権利および自由を宣言し、王位継承を定める法律〉の通称。ジェームズ2世の不法行為を列挙したうえで、国王の法律執行停止・適用免除、課税、平時における常備軍の維持などを議会の承認なしに行うことを違法として、国民の古来の権利と自由を確認した。17世紀の国王と議会の対立抗争に終止符を打ち、名誉革命後の体制を規定した。

アメリカ独立宣言

アメリカ独立革命に際し、大陸会議が1776年7月4日(米国ではこの日を独立記念日として祝う)採択した宣言。T. ジェファソン、J. アダムズ、B. フランクリンが起草。自然権思想、政府契約説に基づき革命権を主張。ロックの思想の影響がある。〈すべての人は平等につくられ〉という部分が特に有名。合衆国憲法とともにアメリカン・デモクラシーの理念を示す重要文献である。

アメリカ独立革命

七年戦争後、英国は新たに北米に獲得した植民地の管理費に当てるため北米13植民地に課税したが、植民地側は〈代表なくして課税なし〉という憲法論を主張して反対運動を展開したため、本国は課税政策の大部分を撤回した。しかし1773年ボストン茶会事件が起こると、本国政府はマサチューセッツ植民地に対する懲罰政策をとったため、他の植民地も態度を硬化し、大陸会議を開いて結束、本国の政策に反対した。1775年武力抗争が始まり、翌年7月に13植民地の独立が宣言され、アメリカ合衆国が誕生した。英国はフランスと同盟した米国を屈服させることができず、1783年独立を認めるパリ条約を結んだ。米国は独立とともに君主制、貴族制を理念的・制度的に否定した。

大陸会議

アメリカ独立に際し、13植民地が共同で英国に抵抗するため組織した合議体。第1回会議は1774年フィラデルフィア。第2回会議は独立戦争勃発(ぼっぱつ)直後の1775年開かれ、独立戦争遂行の中央機関となる。1776年には独立宣言を発し、1777年には連合規約を採択するなど、1789年に合衆国憲法下で新政府が成立するまで臨時政府としての役割を果たした。

ジェファーソン 1743‐1826

米国の政治家。第3代大統領(1801年―1809年)。1775年大陸会議に参加、アメリカ独立宣言の起草者のひとり。バージニア州知事,駐仏公使をへて、1790年―1793年ワシントンの下で初代国務長官を務め、リパブリカン党(民主党の前身)を組織しジョン・アダムズのもとで副大統領(1797年―1800年)、次いで大統領となった。1803年のルイジアナ購入、教育振興などの功績を残した。政界引退後は大衆教育に努め、バージニア大学を創設し(1825年)、アメリカ民主主義の父と呼ばれている。著書《バージニア覚書》(1785年)以外にも約5万通の書簡を残した。

生存権

人間にふさわしい生活の保障を国家に要求する権利。生活権とも。生存権の思想は近世自然法思想やフランス革命期からみられるが、国民の生活の保障を国家の任務とすべきだとする社会国家の理念の確立に伴い、第1次大戦以後基本的人権の一つとして明確に宣言されるようになった。現行憲法は〈健康で文化的な最低限度の生活を営む権利〉(憲法25条1項)を保障するが、この規定は具体的・現実的な請求権の保障ではなく(1948年最高裁判決)、国家の任務を示すプログラムにすぎないとする見解もある。1967年の朝日訴訟判決でもこの立場がとられた。なお,近年では平和的生存権や広義の生存権のひとつとしての環境権の概念が新たに提唱されている。

環境権

すべての人々がその共通の財産として、自然的・社会的・文化的環境を享受し、かつこれを支配しうる権利。その法的根拠は日本国憲法第13条、25条に求められている。日本では1970年3月に開かれた〈公害問題国際シンポジウム〉の〈東京宣言〉の中で、環境権を〈人たるもの誰もが、健康や福祉を侵す要因にわざわいされない環境を享受する権利と、将来の世代へ現代が残すべき遺産であるところの自然美を含めた自然的資源にあずかる権利〉として位置づけ、これを基本的人権の一種として法体系の中に確立するよう主張したのが、この権利についての議論の本格的なはじまりとなった。しかし判例では環境権を認めたものは1件もない。

幸福追求権

現行日本国憲法第13条の保障する〈生命・自由および幸福追求権〉のこと。アメリカ独立宣言が幸福追求を人間の基本的な権利として明示したことに由来する。自由権をその本質とするこの権利は、個人の尊厳の原理に基づき、人格的生存に必要不可欠の権利・自由を包摂する包括的かつ具体的基本権であり、いわば諸々の基本的人権規定の総則的位置にある。したがって、個人的な基本権規定によって明文的に保障されていない諸権利を含むものとされ、具体的には、人格権、プライバシーの権利、環境権、自己決定権などがこの幸福追求権から導かれてきた。

人格権

第三者による侵害に対して法律上保護さるべき人格的利益に関する私権。身体・自由・名誉に対する侵害が不法行為になることは民法で規定されている(民法710条)が、このほか生命・貞操・信用・氏名(氏名権)・肖像(肖像権)などの上にも人格権が認められる。近時、個人の私生活そのものを人格権に含めて保護するかどうかが問題となっている(プライバシー)。差止請求権の根拠ともなると考えるのが一般的である。人格権の完成された定義はまだ存在しない。


プライバシー


他人の侵害から保護される私生活や私事。他人から隔離されて、一人でそっとしておいてもらいたいという生活上の利益が、人格権の一つであるプライバシーの権利として法的保護の対象とされる。私生活・私事が公開されないことがその主たる内容をなす。その侵害によって金銭的損害は受けなくとも、被った精神的損害に対して賠償等を請求できる。この侵害は名誉毀損(きそん)とは区別される。憲法13条の幸福追求権に基礎づけられ、判例上も認められている。

個人情報保護法

(1)正称は〈行政機関の保有する電子計算機処理に係る個人情報の保護に関する法律〉。1988年公布、1990年全面施行。個人情報ファイルの利用制限、自己情報の開示・訂正請求などが定められており、個人のプライバシーの保護を目的としている。政府はこれに基づき、自分の情報に限って開示請求できる政令を定めた。また、地方公共団体では2000年4月現在、約1750が個人情報保護条例を定めている。
(2)行政機関に限らず、個人情報を取り扱う各種の機関や人を対象として、個人に関するさまざまなデータの適正な扱い方を定めるため、個人情報保護基本法制が2003年5月成立し、(1)個人情報保護法、(2)行政機関個人情報保護法、(3)独立行政法人等個人情報保護法、(4)情報公開・個人情報保護審査会設置法、(5)行政機関個人情報保護法等の施行に伴う関係法律整備法が定められた。これに先立ち、2000年10月には政府の専門委員会が〈大綱〉を出したが、報道や学術研究など〈表現の自由〉との関わりをはじめ、多くの問題点が指摘された。関連5法のうち、(1)が基本法的性格をもち、〈個人情報取扱事業者〉のうち、5000件以上の個人情報を扱うものが本法の対象となり、個人情報保護のために具体的な義務が規定されるが、報道機関、著述業、学術研究機関などには義務規定は適用されない。

情報公開制度

知る権利は、一般的・抽象的なものであるから、各人にどのような内容の権利を保障するかは、法律などにより具体的に規定されなければならない、としてつくられた制度が情報公開制度である。この制度の目的は政府などの公的機関の保有する情報(公的情報)の開示であって、個人や私的企業の情報(私的情報)を対象とはしない。政府に情報開示を義務づけた情報公開法としては、1967年に施行されたアメリカの情報自由法があり、以後欧米に広まった。日本では、国政レベルでの情報公開は遅々として進んでいないが、地方自治体レベルでは、1998年現在で都道府県・特別区すべてで情報公開が条例化されている。国政レベルの情報公開については行政改革の重要な一環として行政改革委員会が1996年12月法律の要綱案を首相に提出し、これにもとづいて情報公開法が1999年5月に制定された。要綱案では、政府がその活動を国民に説明する責任を全うし、国民による行政への監視・参加を充実させることを目的に掲げるが、〈非公開情報〉として防衛・外交、捜査情報、個人情報、企業情報など6分野を明示している

アクセス権

一般に、特定の物や情報・人・場所などに接近したり取得する権利。特に1960年代末に、米国で注目を集めたのは、表現の自由の一形態である〈知る権利〉の目的からいって、市民は自己の意見を表明するために新聞紙面や放送時間の配分を無料または有料で請求できる権利をもつというもの。その理由としては、市民が利用できる表現の手段が限られており、マスコミの威力とは比べものにならないこと、新聞・放送機関などがたてまえとして唱えている〈公器性〉が現状ではかならずしも十分実現されていないこと、などがあげられ具体的には意見広告や反論権などがその手段として要求される。そのほかに、市民、特に報道機関が政府機関の保有する情報などの開示を求める権利という意味で用いられることもある。なお,1974年には米国で情報の自由に関する法案が成立して、幅広い情報を得られる国民の権利が保障されることになった。また日本では1999年5月に情報公開法が制定されている。

知る権利

一般市民(公衆)がその必要とする情報を、妨げられることなく自由に入手できる権利をいう。情報化社会においては、国政レベルから日常生活レベルにいたるまでの公的情報を自由に入手することを求める〈知る権利〉は、最も重要な人権のひとつである。一方、最大限に尊重されなければならない個人のプライバシーは、各自治体で個人情報の保護を図るための条例制定が相次いでいる。アメリカでは1974年に情報の自由に関する法案が成立して、幅広い情報を得られる国民の権利が保障されることになった。日本では1999年5月現在、情報公開法が制定され政令の策定作業が進行中。

ワイマール憲法

1919年8月11日のドイツ国憲法。第1次大戦で敗北し帝政が崩壊した後、ワイマールの国民議会で制定。直接選挙による大統領の強大な権限、直接民主制の大幅な採用、社会的基本権の保障、所有権の制限などが特色。きわめて民主的な憲法であったが、比例代表制採用の結果、小党分立に陥り、1930年代初頭に大統領の緊急命令権が濫用され、ヒトラーの政権掌握後1933年実質的に廃止。

ドイツ連邦共和国基本法


ドイツの憲法。旧西ドイツ(ドイツ連邦共和国)10州と西ベルリン代表からなる憲法議会で英・米・仏占領下に1949年5月制定。ボン基本法とも。自由主義・資本主義を基調とする連邦制をとり、国民主権・三権分立が原則。1990年10月のドイツ統一は、この憲法の第23条に基づき東ドイツの西ドイツへの編入というかたちで行われた。

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