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人権とは(日本では基本的人権)    今後勉強し追加補正をしていきます

 人類が生まれながらにして持っている権利=国家権力ですら介入できない権利=自然権で、日本国憲法も定めている諸々の「自由権」がある。また人が人間らしく生きるための教育権や団結や交渉・争議などの社会的権利として「生存権」がある。民主主義の発展にともなう「参政権」がある。さらには「幸福追求権」がある。また今まで述べた権利を守らない悪政に抵抗し、正していく「抵抗権」がある。基本的人権が守られているか検討する司法権もある。
 誰も生まれたときには束縛されないということである。我々の理解も間違いではなかった。

 人類が社会発展と同時に獲得し整理されてきた貴重な文化と言えよう。イギリスでは王権に抵抗したの家臣たちの抵抗による権利の確立=マグナ・カルタ。ルソーの「社会契約論」、そしてアメリカ独立戦争、フランスの人権宣言へと続くのであり、特に人権宣言が世界の憲法に大きな影響を与えてきた。

 日本では憲法で第三章に国民の権利と義務という内容で人権ということが定められているが、前文で定めている国もある。
 裁判で人権が守られているのかチェックするのも重要である。それがなくなれば絵に描いたぼた餅と言うことになる。



イギリス

 マグナ・カルタ(1215)
  王権の不当な横暴・搾取に抵抗した、家臣たちの革命が成功し案文を王は認めざるを得なかった。
  封建の国家権力の問題であるから、当然軍事力なしには解決はしない。

 権利請願(1628)

 人身保護法(1679)

 権利章典(1689)

 王位継承法(1701)
  裁判官の身分保障

 奴隷制廃止法(1833)
  欧米においてはじめて奴隷制を廃止した。

 性別による欠格(の除去)に関する法律(1919)
  女子に選挙権を認めたもの

ルソー「社会契約論」(1762) ホッブズ、ロック

 人間は自由なものとして生まれた、しかもいたるところで鎖につながれている。自分が他人の主人であると思っているようなものも、実はその人々以上に奴隷なのだ。どうしてこの変化が生じたのか。
 本来自然状態にあった自由にして平等な個人が主体的意思をもって相互に社会契約を結び、市民社会を形成するという理論。

アメリカ

 1776年7月4日、コングレスにおいて13のアメリカ連邦諸邦の全員一致の宣言
  =独立宣言
(1776)

 人類の発展過程に、一国民が、従来、他国民の下に存した場合の政治的紐帯を断ち、自然の法と自然の神の法とにより付与される自立平等の地位を、世界の諸強国の間に占めることが必要となる場合に、その国民が分立を余儀なくさせられた理由を声明することは、人類一般の意見に対して抱く当然の尊重の結果である。
 われわれは、自明の真理として、すべての人は平等に造られ、造物主によって、一定の奪いがたい天賦の権利を付与され、そのなかに生命、自由および幸福の追求の含まれることを信ずる。
 またこれらの権利を確保するために人類の間に政府が組織されたこと、そしてその正当な権力は被治者の同意に由来するものであることを信ずる。そしていかなる政治の形態といえども、もしこれらの目的を毀損するものとなった場合には、人民はそれを改廃し、彼らの安全と幸福とをもたらすべしとみとめられる主義を基礎とし、また権限の機構をもつ、新たな政府を組織する権利を有することを信ずる。
 永く存続した政府は、軽微かつ一時的の原因によっては、変革されるべきでないことは、実に慎重な思慮の命ずるところである。したがって、過去の経験もすべて、人類が災害の堪え得られる限り、かれらの年来したがってきた形式を廃止しようとせず、むしろ耐えようとする傾向を示している。しかし、連続する暴虐と纂奪の事実が明らかに一貫した目的のもとに、人民を絶対的暴政の下に圧倒せんとする企図を表示するに至るとき、そのような政府を廃棄し、自らの将来の保安のために、新たなる保障の組織を創設することは、かれらの権利であり、また義務である。これら植民地の隠忍した苦難は、まったくそういう場合であり、今や彼らをして、余儀なく、従前の政治形態を変革せしむる必要は、そこから生ずる。大英国の現国王の歴史は、これら諸邦の上に、絶対の暴君制を樹立することを直接の目的として繰り返して行われた、悪行と纂奪との歴史である。これを証する為、公正な世界に向かって事実の提示を敢えてする。
 ゆえに、われらアメリカの連合セル処方の代表は全体会議に集合し、われらの志向の誠直を至高なる世界の審判者に希求しつつ、これら植民地の善き人民の名において、またその権能によって厳粛に公布すし宣言する。
 この宣言の支持のために我々は聖なる摂理の保護に信頼しつつ、相ともに、われらの生命財産および名誉を捧げることを誓う。以上

 バージニア州憲法(1776)

ドイツ

 ワイマール憲法(1919)


フランス
人および市民の権利宣言=人権宣言(1789)

前文

国民議会として構成されたフランス人民の代表者たちは、人の権利に対する無知、忘却、または軽視が、公の不幸と政府の腐敗の唯一の原因であることを考慮し、人の譲りわたすことのできない神聖な自然的権利を、厳粛な宣言において提示することを決意した。この宣言が、社会全体のすべての構成員に絶えず示され、かれらの権利と義務を不断に想起させるように。立法権および執行権の行為が、すべての政治制度の目的とつねに比較されうることで一層尊重されるように。市民の要求が、以後、簡潔で争いの余地のない原理に基づくことによって、つねに憲法の維持と万人の幸福に向かうように。こうして、国民議会は、最高存在の前に、かつ、その庇護のもとに、人および市民の以下の諸権利を承認し、宣言する。

第1条

人は、自由、かつ、権利において平等なものとして出生し、生存する。社会的差別は、共同の利益に基づくものでなければ、設けられない。

第2条
すべての政治的団結の目的は、人の、時効によって消滅することのない自然権の保全にある。これらの諸権利とは、自由、所有、安全および圧制への抵抗である。

第3条

すべての主権の原理はは、本質的に国民にある。いかなる団体も、いかなる個人も、国民から明示的に発しない権威を行使することはできない。

第4条

自由とは、他人を害しないすべてのことをなしうることにある。したがって、各人の自然権の行使は、社会の他の構成員にこれらと同一の権利の享受を確保すること以外の限界をもたない。これらの限界は、法律によってでなければ定められない。

第5条

法律は、社会に有害な行為しか禁止する権利をもたない。法律によって禁止されていないすべての行為は妨げられず、また、何人も、法律が命じていないことを行うように強制されない。

第6条

法律は、総意の表明である。すべての市民は、みずから、またはその代表者によって、その形成に参与する権利をもつ。法律は、保護を与える場合にも、処罰を加える場合にも、すべての者に対して同一でなければならない。すべての市民は、法律の前に平等であるから、その能力にしたがって、かつ、その徳行と才能以外の差別なしに、等しく、すべての位階、地位および公職に就くことができる。

第7条

何人も、法律が定めた場合で、かつ、法律が定めた形式によらなければ、訴追され、逮捕され、または拘禁されない。恣意的命令を要請し、発令し、執行し、または執行させた者は、処罰されなければならない。ただし、法律により召喚され、または逮捕されたすべての市民は、直ちに服従しなければならない。その者は、抵抗によって有罪となる。

第8条

法律は、厳格かつ明白に必要な刑罰でなければ定めてはならない。何人も、犯行に先立って設定され、公布され、かつ、適法に適用された法律によらなければ処罰されない。

第9条

何人も、有罪と宣告されるまでは無罪と推定される。ゆえに、逮捕が不可欠と判断された場合でも、その身柄の確保にとって不必要に厳しい強制は、すべて、法律によって厳重に抑止されなければならない。

第10条

何人も、その意見の表明が法律によって定められた公の株序を乱さない限り、たとえ宗教上のものであっても、その意見について不安を持たないようにされなければならない。

第11条

思想および意見の自由な伝達は、人の最も貴重な権利の一つである。したがって、すべての市民は、法律によって定められた場合にその自由の濫用について責任を負うほかは、自由に、話し、書き、印刷することができる。

第12条

人および市民の権利の保障は、公の武力を必要とする。したがって、この武力は、すべての者の利益のために設けられるのであり、それが委託される人々の特定の利益のために設けられるのではない。

第13条

武力の維持および行政の支出のために、共同の租税が不可欠である。共同の租税は、すべての市民の間で、その能力に応じて、平等に配分されなければならない。

第14条

すべての市民は、みずから、またはその代表者によって、公の租税の必要性を確認し、それを自由に承認し、その使途を追跡し、かつその数額、基礎、取立て、および期間を決定する権利をもつ。

第15条

社会は、すべての官吏に対して、その行政について報告を求める権利をもつ。

第16条

権利の保障が確保されず、権力の分立が定められていないすべての社会は、憲法をもたない。

第17条(所有の不可侵、正当かつ事前の補償)

所有は、神聖かつ不可侵の権利であり、何人も、適法に確認された公の必要が明白にそれを要求する場合で、かつ、正当かつ事前の補償のもとでなければ、それを奪われない。


 「人間は生まれながらにして平等である。」ブルジョア民主主義の原点です。しかし現在なぜブルジョア民主主義すら否定する動きになっているのか。なぜ特定の支配者に抑圧されねばならないのか。いい言葉ですね。
 伊藤哲夫なる御用学者は言いたい放題。自分の職場を見ていると幹部にゴマするものもいる。財界に奉仕したいその気持ちは理解しますが、あまりにもひどすぎる。これでよいのでしょうか。


(以下は憲法調査会の議論で参考資料-薦めているのではありません)
第154回国会 憲法調査会基本的人権の保障に関する調査小委員会 第4号
平成十四年五月二十三日(木曜日)
    午後二時開議
 出席小委員
   小委員長 島   聡君
      石破  茂君    近藤 基彦君
      土屋 品子君    長勢 甚遠君
      葉梨 信行君    小林 憲司君
      今野  東君    太田 昭宏君
      武山百合子君   春名 直章君
      植田 至紀君    井上 喜一君
    …………………………………
   憲法調査会会長代理    中野 寛成君
   参考人
   (日本政策研究センター所
   長)           伊藤 哲夫君
   衆議院憲法調査会事務局長 坂本 一洋君
    ―――――――――――――
五月二十三日
 小委員近藤基彦君四月十六日委員辞任につき、その補欠として近藤基彦君が会長の指名で小委員に選任された。
同日
 小委員金子哲夫君同日小委員辞任につき、その補欠として植田至紀君が会長の指名で小委員に選任された。
同日
 小委員植田至紀君同日委員辞任につき、その補欠として金子哲夫君が会長の指名で小委員に選任された。
    ―――――――――――――
本日の会議に付した案件
 基本的人権の保障に関する件

     ――――◇―――――
島小委員長 これより会議を開きます。
 基本的人権の保障に関する件について調査を進めます。
 本日、参考人として日本政策研究センター所長伊藤哲夫君に御出席をいただいております。
 この際、参考人の方に一言ごあいさつを申し上げます。
 本日は、御多用中にもかかわりませず御出席をいただきまして、まことにありがとうございます。憲法調査会基本的人権の保障に関する小委員会として、これで四回目の小委員会を開かせていただきます。きょうは、基本的人権の保障につきまして、参考人のお立場から忌憚のない御意見をお述べいただきまして、調査の参考にいたしたいと存じますので、よろしくお願い申し上げます。
 次に、議事の順序につきまして申し上げます。
 最初に参考人の方から御意見を四十分以内でお述べいただき、その後、小委員からの質疑にお答え願いたいと存じます。
 なお、発言する際はその都度小委員長の許可を得ることとなっております。また、参考人は小委員に対し質疑することはできないことになっておりますので、あらかじめ御承知おき願いたいと存じます。
 御発言は着席のままでお願いいたします。
 それでは、伊藤参考人、お願いいたします。

伊藤参考人 ただいま御紹介いただきました伊藤でございます。よろしくお願いします。
 今まで三人の憲法の先生の方からお話があったそうでございますが、私は憲法を専門に研究している学者ではございませんが、むしろ、そういう学者的な立場からではなくて、一般国民として、そういう学者の先生方が解釈しておられる学説も含めて、私、日ごろ素朴な疑問を感じている部分がございます。そういう疑問についてきょうはお話をさせていただきたいというふうに思って、参りました。

 まず、基本的人権という言葉からでございます。
 基本的人権は、御存じのように、憲法十一条それから憲法九十七条に出てくる言葉でございます。基本的人権ということを盛んに言いますので、憲法の至るところに出てくるかのようにちょっと誤解してしまうわけでありますが、出てくるのはこの十一条、九十七条ということになります。

 それでは、この基本的人権という言葉をどう解釈するのかということで、ここで通説的な解釈ということで、これは皆様方も御存じかと思いますが、とりわけ宮沢俊義先生などがおっしゃられた、人間性から論理必然的に生ずる権利であって、換言すれば、人が人たることに基づいて当然に有する権利である、まあ前国家的な自然権というものであると。と同時に、九十七条を踏まえまして、それはアメリカ、フランス両革命が掲げた政治原理に由来するものである、そういう解釈がなされております。

 とりわけ、その淵源とされるアメリカ、フランス両革命ということで引用されるのが、以下三つ挙げましたが、バージニアの権利章典、それからアメリカ独立宣言、フランス人権宣言でございます。

 中でも、バージニア権利章典に関しては、「すべて人は、生来ひとしく自由かつ独立しており、一定の生来の権利を有するものである。」こういう一節。それから、アメリカ独立宣言の「すべての人間は平等に造られ、おのおの造物主によって、他人に譲りわたすことのできない一定の権利を与えられている。」これはちょっと引用するものによって違うんですが、この「一定の権利」を「天賦の権利」と訳しているものもございます。三番目、フランス人権宣言、「人は、自由かつ権利において平等なものとして出生し、かつ生存する。」という、これが代表的な自然権というものを表明する言葉であろうかというふうに思います。

 これが原型とすれば、現代においてこういう考え方をとりわけ明確にあらわす憲法の例として、ドイツ連邦共和国の基本法が言われるわけでございます。
 これは第一条でございますが、「人間の尊厳は不可侵である。」、そして二項で、ドイツ国民は「侵すことのできない、かつ譲り渡すことのできない人権を、世界のあらゆる人間社会、平和および正義の基礎として認める。」こういう条文があるわけでございます。自然権あるいは人が人たることに基づいて当然に有する権利というのはこういうものであるということがまず前提となります。
 そこで、私の疑問と申しますか、考え方をこれから少し開陳させていただきたいと思います。

 この資料に黒ひし形でちょっと付加する部分をつけておきました。この自然権というものを考えるときに、実は前提があったのではないだろうかということを私は指摘したいわけでございます。
 端的に言いますと、フランス革命はちょっと色合いを異にしますが、ここに紹介したものは、キリスト教的な神という観念を前提とした発想であるということで、自然権の条文の根底にあるのはとりわけロックの自然権論だというふうに言われますが、ロックが説いたのは、神のしもべとして創造された人間が自然状態において持つ権利というところから出発して、社会契約説を唱えたわけでございます。そのロックの自然権論の中にも明白にありますように、神のしもべとして創造された人間という大前提があるわけでございます。当然、それを受けて、さきに紹介しました三つのものもそういう内容を持っている。

 バージニアの権利章典、これは一つ一つやるにはちょっと時間がございませんので、読んでいただけばよろしゅうございますが、とりわけ下の方、「お互いに、他に対してはキリスト教的忍耐、愛情および慈悲をはたすことは、全ての人の義務である」と、神に与えられた権利であるがゆえにそういう義務もあるんだということをうたっておるわけであります。
 それから、アメリカ独立宣言は、「おのおの造物主によって」ということで、これは神ということだと思いますが、神に与えられた権利なのだと。当然、独立宣言の中には、ほかにも、神及び神の法のもとにという一番冒頭の言葉が来ますし、それから一番最後に、「聖なる摂理の保護に信頼しつつ」という言葉がございまして、この「聖なる摂理」というのも、これは当然神のことでございます。神に対してある意味での義務を負うという観念が背景にあるわけでございます。

 伊藤という御用学者は何故「キリスト教の神」にこだわっているのか理解に苦しむ。ブルジョア民主主義は歴史がある。最初はキリスト教的なものから発展している。今後も発展していく。そこで何故「キリスト教」にこだわるのか。伊藤こそ形而上学的である。

 では、フランス人権宣言はと申しますと、これはキリスト教の神と必ずしも言えない。フランス人権宣言の成立過程にはいろいろ議論があった。キリスト教関係者がキリスト教の神ということを言うべきだ、そういうことも言われましたが、結果的にどうなったかというと、「国民議会は、至高の存在の面前でかつその庇護の下に、」ということで、まあ神という言葉は使いませんが、人間を超えたそういう高いものの前で責任を自覚しつつ権利を確認する、こういう書き方になっております。

 一方、ドイツの場合は、ドイツ憲法の前文には、「ドイツ国民は、神と人間に対する責任を自覚し」云々と、憲法全体を貫く精神として神ということを明確に言っております。神に対する責任ということを言っておるわけでございます。そういう責任というものを前提にしての、いわゆる権利という発想であった。

 フランス人権宣言の場合は、その神という観念はあえて打ち出さなかった。そうすると、フランス人権宣言で説かれている人とは何ぞやというと、これは神のしもべというわけにはいかない。しからば何だということになると、いろいろ議論があるわけでありますが、フランス革命のいろいろな文献の中には新しい人間という言い方がされています。要するに、私利私欲を持たない共和国的な人間という言い方です。それで初めて人権というものは成り立つんだ、そういう前提を置いて議論しておったということでございます。

 さて、そこで、冒頭の、人が人たることによって当然に生ずる権利ということに戻るわけでございますが、我が国の場合、抽象的個人というものが前提になっておって、その抽象的個人の背景に一体何があるのかということに関する議論がほとんどなされておらないわけです。人間は人間なんだよ、そういう議論もあろうかと思いますが、私はちょっとそこに疑問あるいは不満を感ずるわけでございます。

 というのは、人間が人間であるがゆえに自由を有するんだ、権利を有するんだ、その権利には基本的に拘束があってはならないんだ、こういうことになりますと、しかし、その人間というものは、実は悪を犯すこともある人間なんですね。あるいはホッブズ的な言い方をすれば、人間の本性はどん欲ということですね。だから、その人間がその人間のままでおるならば、万人の万人に対する闘争という形になるんだ、こういう議論を彼は展開したわけでありますが、私は、このホッブズの指摘というものは忘れてはならない。

 悪人のことを前提とした憲法ではない。憲法は特定の個々のことを定めているのではない。国民がまとまれる範囲で決めている。悪人については刑法があるよ。

 いわゆるロック的な神のしもべとしての人間ということで出発するならば、そういうことはある意味で信仰の世界で解決がつくのかもしれませんが、何の前提もない人間ということを前提にする場合、その人間というものは悪を犯すこともあるんだ、あるいはどん欲という性質も持っておるんだということでございます。

 ということは、言いかえますと、その人間の定義からは自己制約の論理が出てこないということでございます。それではいかぬということで、憲法学者の中には、いや、ここで前提とされている人間は、単なる人間ではなくて、理性的人間のことだとか、あるいは人格を持った人格的存在のことなんだ、こういう修正派が出てきておるわけでございます。

 しかし、その理性とは何ぞや、人格とは何ぞやということを問いますと、必ずしも厳密に答えられているようには思えません。というのは、人間というものは、人格を持つということは、その背後にある歴史、文化、伝統の中で人格というものは形成される。
 昔、オオカミ少女という話がございました。生まれた直後にオオカミに育てられた少女は、言葉も持たなければ、そういう人間の文化に触れることもなかった。発見されて人間社会に戻ってきたけれども、ついに人間になることはできなかった、そういう話がございますけれども、人間が物を考え、そして人格を形成していくということは、まずやはり言葉というものが前提となります。

 そして、その言葉の中に込められたいろいろな文化の伝承、そういうものの中で人格が形成されていくというふうに考えますと、そういうものを全く議論しないでいきなり人格を出してくるのは、これはちょっと乱暴な議論じゃないかという感じがしてなりません。そういうことが我が基本的人権論ではほとんど議論されていないということに関する不満を私は覚えるわけでございます。

 前提とされる人間観というものは非常に重要でございまして、ただ人であるということでいいんだ、こういう、ただ人であることというその人のことを、マイケル・サンデルという学者は、負荷なき個人という言い方をあえてしまして、ここには、歴史による負荷もなければ文化による負荷もない、何にもない個人である、それは果たして権利の主体たり得るんだろうか、そういう疑問を出しております。

 出発点としての人間観というところで、私はちょっとそういう疑問を呈させていただきたい。
 続きまして、それでは一方、そういう自然権論的な把握に対して私は疑問を呈したわけでございますが、しからば、それは私が一方的に言っている独善的な疑問なのかといいますと、必ずしもそうではないようでございまして、西洋の法思想あるいは政治思想というものをひもといてみますと、大きく分けて二つ潮流がある。

 今紹介したのはロック流の自然権論でございますが、実はそれだけが正統であるわけではございませんでして、例えば英国における保守主義、エドマンド・バーク、その源流をたどればコークという法律家がおりましたが、コークというような人からバーク、そして流れてくる保守主義の考え方、それから、スコットランド啓蒙と言われるヒュームとかアダム・スミスという人たち、それから、これは大陸系という言葉にはちょっと矛盾してきますが、モンテスキューです。

 モンテスキューの「法の精神」というのは、これはまず最初に人間というものを出してきて、そこから演繹的に議論していくんではなくて、彼は各国のそれぞれの多様な歴史を学び、研究し、その中にそれぞれ固有の法の精神があるんだと。その法の精神の中から築き上げられた権利という考え方、そういうものを明らかにしていったということで、方法論からいえば非常に歴史論的な方法論でございます。

 そういう考え方からいきますと、権利というものはどういうふうにとらえるかというと、全く定義のない、人間とか、あるいは神のしもべなどという個人をまず前提とさせるのではなくて、人間というものを、まず普通の人間、それも基本的にはいわゆる国民である。それぞれの国に属する、あえて国と言わなければ、政治共同体に属する国民が歴史の経験の中で練り上げてきた観念、とりわけ、その中で人間というものにこれは必要な聖域なんだというような形で形成されてきた権利観念、これがロック流の自然権論に対抗する権利のとらえ方でございます。私は、こういう考え方にむしろ重要性を感じます。

 英国における英国人の古来の自由と権利という考え方はまさにそうでございまして、マグナカルタから始まりまして、権利の請願、権利章典という流れで今日まで伝わってきているイギリス的な権利観。初めは、マグナカルタの時代は、これは当然封建的貴族の権利であった、あるいは特権と言ってもいいかもしれません。ところが、それが歴史の経験の中でだんだん広がっていって、そして権利の章典。名誉革命の時代になりますと、庶民にもすべて及ぶ権利という形で考えられるようになっていった。

 それは、先ほどから繰り返し言いますように、歴史的に形成されてきた権利なんだということで、ですから、その権利も、合理論によってつくり上げてきた権利ではなくて、いわゆる経験主義的に、歴史のテストを経て伝えられてきた、何度も修正を加えられながら伝えられてきたそういう権利観という考え方でございます。
 さて、三番目でございますが、では、アメリカはどうなのか。

 先ほど独立宣言で、あれは自然権だという言い方をしましたが、実は、その文言だけを見るとそのようにも読めるんでありますが、最近、アメリカの独立革命史はいろいろ研究を積み重ねてきまして、最近台頭してきた研究成果によりますと、いわゆる独立革命におけるジェファーソンの思想は必ずしもロック流の自然権だけではなかったんだと。ロック流の自然権というよりも、むしろ英国人の古来の自由と権利という考え方が前提にあって、それがもとになって展開されていったんだと。
 ちょっと細かい話はここでは省かせていただきますが、もしあれでしたら後で御質問の中でもう少し詳しく説明させていただきます。
 もっと言いますと、アメリカ独立革命というのは、実は新しく自然権を打ち立てたんじゃなくて、初めは、我々はイギリス国民なんだと。そのイギリス国民の伝統的な権利が植民地においては踏みにじられていると。それに対するプロテストとして、いわゆる独立というところまで流れていった。独立ということになると、イギリスから分離するわけですから、これはイギリス国民の権利というわけにはいかない。そこで、じゃ、どのように論拠づければいいかということで、自然権的な言い方をせざるを得なかったということであって、その思想の根底にあるのは伝統的な権利という考え方であったということでございます。

 さらに、その後十年たちますと、アメリカ合衆国憲法の制定というところに行くわけでございますが、ここではそういう考え方はとりわけ明確でございまして、米国憲法を読んでいただければわかりますように、そこには自然権だとか社会契約という考え方は一切ございません。むしろ、イギリス憲法的な実定的権利観というものがそこでは表明されていると言ってよろしいかと思います。
 そういう、権利のとらえ方には二つあるということをここでは強調しておきたいと思います。

 そこで、日本国憲法は自然権ということになって、これがある意味では常識になっているけれども、本当にそうなんだろうかということについて、ここで簡単に疑問を提起しておきたいと思います。

 条文を読みますと、まず憲法第三章の表題が「国民の権利及び義務」ということになっておりまして、基本的人権及び義務とか人の権利及び義務という言い方はしておりません。あくまでも「国民の権利及び義務」というふうになっております。すなわち、第三章は、まず、国家以前の人を前提とした権利ではないんだ、国民を前提とした権利なんだという言葉になっております。いや、これはちょっと間違ったんだというわけにはいかないと私は思います。

 それから、十二条、十三条、これは、今の学者の先生方の解釈というものを一切抜きにして、虚心坦懐に読んでいただきたいと思うんです。第十二条は、「この憲法が国民に保障する自由及び権利」。まず「この憲法が国民に保障する自由及び権利」という言い方をしています。ということは、やはりこれは憲法上の権利なんだ、憲法が認めたから発生する権利なんだという言い方で、憲法以前にまず権利があるんだという考え方を果たして認めたんだろうかという見方が一つできます。

 それよりも、私はさらに言いたいのは、「国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。」国家以前の段階にまず個人というものがあって、その個人には人権というものがあるんだ、権利というものがあるんだ、その権利というものはある意味では拘束されない権利なんだ、こういう考え方からいくと、「国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。」と余計なことを言っているということになりますし、「公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。」というのは、これは自然権なんですか、自然権だったらこんなごちゃごちゃ言わなくてもいいじゃないですかということになる。自然権を与えてくれたにしては、この憲法はちょっとけちでございませんかと、あえて私は皮肉も言いたくなるような書き方ではないか。

 そこで、憲法学者はどうするかというと、これは単なる訓示的規定であって法律的には余り意味がないんだ、こういう解釈をして、この条文にこだわらないわけです。でも、そうやってすっ飛ばしていいんでしょうか、憲法に書いてあるんですよということでございます。自然権であるならば、この条文はちょっと納得できない条文ではないかと、私は素人であるがゆえに、そういう素朴な疑問を提起したいと思います。

 それから、第十三条、これはまたとりわけ自然権論者が強調する条文でもあるわけでありますが、しかし、その後段、「公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」と書いてある。これが自然権であったら、「公共の福祉に反しない限り、」なんという言葉は、少なくとも純粋な自然権論でいけば、余計なことということになろうかと思います。それから、「立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」これも余計なことで、尊重するのは当たり前であって、「最大の尊重」どころか、絶対の尊重を必要とすると書くべきだと私は思うんです。それが、公共の福祉に反しない限り最大の尊重ということでとどまっているのは一体何か。これは、実は自然権ではないんではないのか。

 あるいは、もっと極端なことを言いますと、ここで言われている「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」、これはアメリカ独立宣言から来ていますから、これは基本的人権、人権のことだという言い方をするわけでありますけれども、しかし、そういう前提を抜きにして虚心坦懐に読みますと、「公共の福祉」だの「国政の上で、最大の尊重」だの、そういう言い方をされていると、これも憲法上初めて誕生した権利、そういう解釈も成り立つんではないか。暴論かもしれませんが、私はあえてそういう関心を持つ。

 それから、時間がないので早く行かなくちゃいけないんですが、配列を見ますと、自然権であるならば、当然自由権というものが重要性を持つはずなんですね。ところが、この第三章の配列を見ますと、十五条は、公務員の選定の権利、参政権ですね。それから、十七条は、国家賠償請求権。これは、国家がなければ存在しない権利でございまして、少なくとも自然権という定義を純粋に追求するならば、こんなところに冒頭から出てきたんではちょっと論理的でないんではないかということになります。それから、二十五条以下と言った方がいいんでしょうか、社会権というものが重要だという言い方をされますが、これもあくまでも国家を前提とする議論ということになります。それは自然権なんですかということになるわけでございます。

 こういう第三章全体の配列、それから個々の条文の書き方を見ますと、これは自然権だということで権威ある学者がまず最初に言ってしまったものですから、この憲法に書かれているのは自然権だということになって、それに対して異説を唱えたら、おまえは何も知らないんだという話になってしまうけれども、私は憲法学者ではございませんので、あえて異論を唱えさせていただくと、ちょっとおかしいんじゃありませんかということを言いたい。本当にこれは自然権なんでしょうかということなんでございます。

 そこで、そういう立場に立って、じゃ、おまえは日本国憲法の権利をどのように位置づけるべきか、あるいはさらに、日本国憲法を変えてその権利というものを位置づけるとすればどうあるべきか、そういうことについて私のささやかな考え方を示したいと思います。

 私は、今まで言ってきましたが、自然権論というものからの脱却を主張したい。そして、権利というものを、そういう、神を前提としなければ成り立たないとか、あるいは全くそういう議論を抜きにして、いきなり人は人としてそれだけで尊重されるべきものなんだという議論で来るのか。これは、私、ある意味での形而上学だと思うんです。

 そうじゃなくて、もっと当たり前の人間観から、間違うこともあり得る、あるいはある意味でいろいろな欲望を持っている、時にはどん欲にも走る、そういう人間をそのまま認めて、しかし、もちろんその人間はあしきことだけではない、その中に理性もあれば崇高なものへの願いもある、そういう人間が、歴史の営為の中で、とりわけ共同体に生まれた人間として、その共同体から負荷された様々な価値観あるいは人間観、あるいは人間として守るべきいろいろな道徳、そういうものを念頭に入れて、共同のその交わりの中で、これだけは守らなければいけませんね、これだけは踏みにじってはいけませんねという形で形成されてき、そしてそれを最終的に憲法で確認し保障することになった権利こそが、これを権利と言うべきものではないのかということでございます。

 あえてそのように権利というものを歴史論的、共同体論的にとらえ、共同体論的にとらえるということは、ですから、人間はただ何にもないところに個人としてぽっと存在するわけじゃない、個人としては存在できないんですね。その人間が、例えば人格というものを持つに当たっても、その民族の言葉というものが必要であります。その言葉の中で伝承されてきたいろいろな価値観というものがあって、その中で人格が築かれるわけでございます。

 ですから、そういうものを丸ごととらえて、そして、もちろん、それが全部が正しいというわけじゃございません。その中でいろいろ試練を経ながら洗練されて今日に至ったのが権利なんだ。しかし、その奧には、その歴史、共同体独特の法の精神が存在する。その法の精神を単に否定の対象としてとらえないで、肯定的にとらえようじゃないか、そういう意味も込めて、私は、権利のとらえ方を主張したい。

 と同時に、権利というものはそれだけでは存在しないわけで、それを意味あるものとするためには、それを支える法と制度というものが非常に重要でございます。

 フランス革命は、人権宣言では非常に立派なことを言いましたけれども、それを実定化していくための法と制度というものにおいて大変な間違いを犯した。その結果、あのフランス革命は大変な災厄を招いたわけでございまして、フランス革命二百年のときも、フランス国内では、必ずしも心の底からフランス革命を祝うことはできない、そういう議論があったわけでございます。それは何かというと、人権観というものももちろん問題であったんでしょうけれども、しかし、何よりも、それを支える法と制度の議論があまりにも大ざっぱ過ぎた。

 一方、ハンナ・アーレントなんかがとりわけ強調することですが、アメリカ憲法は自由の確立に成功したという言い方がされます。それは、なぜそれができたかというと、そのための法と制度において、アメリカ憲法は卓抜な工夫を行ったんだ、そういうことを言うわけでございます。

 そういう意味で、私は、余り理念的な、自然権だというような、そういう形而上学を振り回すのではなくて、もっと権利というものを経験主義的にとらえ、なおかつ、それを支える法と制度というものはどうあるべきかという議論を現実主義的に展開していくことが、権利のためにも必要ではないのかということを主張したいわけでございます。

 伊藤君、屁理屈はやめてもらいたい。君の嫌いなフランスは、アメリカ一国主義に反して「イラク戦争」に賛成していないよ。皇国史観に立っているのなら、最初から天皇ありきで議論にならない。伊藤は形而上学から脱するべし。形而上学が悪ければ唯物史観に立てばいいよ。

 さて、ここで二番目になります。
 そこで、権利の限界ということになります。冒頭の議論とも関連しますが、権利というものの本質からくる限界があるんじゃないか。当然、いわゆる原初的な自然権論には、神という存在からくる制約というものは当然意識されておった。それが、例えばバージニア権利の章典の冒頭に紹介した条文でもあるわけであります。キリスト教的な道徳を忘れてはならぬということであります。もちろん、それとともに、人間というのは一人で存在するわけじゃない、ともに生きているわけでございますから、そこからくる制約もございます。そういう、法で縛る以前に、権利というものの内在的な制約というのもあるんじゃないか。

 その制約はどこからくるかという議論の中で、ロバート・ベラーというアメリカの学者が心の習慣ということを言っている。これはトクビルから得た言葉なんでありますが、アメリカの権利、あるいは自由が今日まで確立して存在してきた背景には、やはり聖書的伝統と共和主義の精神というものがあったんだ、これを抜きにしたら、権利は自己崩壊を遂げていたであろう、民主主義は自己崩壊を遂げていたであろう、こういうことでございます。

 これは、さらに、トーマス・ジェファーソンの認識でもございまして、彼は、共和国を生き生きと保つものは人民の態度と習俗であるという有名な言葉を残しておりまして、権利という言葉を強調するだけではだめなんだ、大切なのは、ある意味でアメリカ国民という以前のイギリス国民として、その中で培われてきた人民の態度と習俗というものを尊重し、それを大切にしていこう。それを守らないと、それは民主主義の中に食い込む国家的潰瘍になる、がんとして国家を滅ぼすことになる、そういう言い方をトーマス・ジェファーソンは言っておるわけでございます。

 そういう権利の自己制約ということの延長の中で、公共の福祉という憲法の言葉がございますが、これでいいのかということになります。もう時間がございませんので簡単に流させてもらいますが、今、公共の福祉を解釈するに当たっては、これは人権相互の調整原理なんだということで、できるだけこの意味を軽く解釈しようとする考え方がございます。

 しかし、これは、否定される方からは何ということを言うんだと言われるかもしれませんが、やはり権利というものは、先ほど言いましたように、国家あって存在する、その国家が崩壊すれば、例えば北朝鮮のあの瀋陽の事件ございましたけれども、あの方々には権利はないわけですね、その国家をまず維持しなくてはならない。

 それから、社会には公共の利益というものがあるんだ。その公共の利益は、実は、道徳、公序良俗という言葉がございますけれども、道徳によって成り立っている。
 これを肥大化させて、これを実体化させて、もうこれで制限するんだ、そういう乱暴な議論をしろと私は言っているんじゃありません。しかし、やはりそういうものの議論を避けては通れないんではなかろうか。
 外国の例との比較をここで入れておきました。

 伊藤君はいろいろ言いながら、基本的人権の制限を言いたかったのですね。福祉国家をめざしてはいけないという主張のようである。そんな主張ばかりでは資本主義日本の破滅になる。
 その前に財界大手の横暴や犯罪が大手を振っている。これは絶対に許すことができない。なぜそのことに触れていないのか、伊藤氏はなぜ避けているのだろうか。


 国家の安全ということは、外国の立法例にはたくさん入っております。あるいは、公共の道徳とかそういう言葉もございます。一方、アメリカ合衆国憲法では、権利の制限という形では入っておりませんが、「正義を樹立し、国内の平穏を保障し、共同の防衛に備え、一般の福祉を増進し、」それと両立する限りで、「われらの子孫に自由のもたらす恵沢を確保する」ということになっておるわけです。

 こういう国家論というものは、私は大切ではないか。そうなると、やはり、今唱えられている公共の福祉論は、果たしてこのままでいいのかなという疑問を私は持っておるということでございます。

 小泉の言っている自助自立、そして軍備増強で軍需産業の利益確保、財界からの要請がありましたね。

 それから、権利に対する義務ということでございます。
 私は、言っておきますが、何も義務をずらずら並べろなどというそんな考え方を持っておるわけじゃございませんけれども、国家共同体を形成する限り、義務というものがなくては国家共同体は成り立たない。我々は、主権者であると同時に、やはり国家の統治に服している、そういう立場もございます。当然、そこには義務があるということであります。

 そこで、あえてここで一つだけ、私は、いろいろな義務を、これはある意味で書こうが書くまいが当たり前の、例えば遵法の義務なんというのは当たり前であって、国家共同体が存在する限り、遵法の義務がなかったら成り立たないわけでございますから、そういうものをあえて書くか書かないか、これはいろいろ議論あろうかと思います。

 私は、国民の義務としては、国防の義務というものをぜひ書いていただきたい。反発も多かろうと思いますけれども、今、有事法を議論されておりますが、いわゆる国家有事の際、国民の自発的協力だけで果たしていけるんですかということを言いたい。
 ただ、念のために言っておきますと、国防の義務というのは、兵役の義務とはイコールではございません。国防の義務というのは、大きく言えば、いわゆる国家有事の際における国民の心の姿勢を論ずるわけでございまして、兵役の義務というのはまた別でございます。

 それと、ここでもう一つ指摘したいのは、自分の国をみずから守るということは民主主義の基本原則ではないのか。かつて、市民という言葉は、防衛の義務を負った人間にのみ言われた言葉でございます。
 外国の例との比較はここで少し削除させていただきます。

 国防の義務についてはいろいろな立法例があります。これは西修先生にお伺いしますと、あらゆる憲法を研究しておられますが、憲法ある国のほとんど大多数、国防の義務は定めておる、ない方が珍しいというふうにおっしゃっておられまして、有名な国の条文を見るだけでも、国防の義務というのはほとんど入っております。

 さて、最後に、各論的規定でございますが、私は、特段ここを直せというような、余り各論については積極的な意見を持っておりませんが、情報に関する権利、環境に関する権利というようなことが言われております。これについては、慎重にその外延、内包を確認しつつ新設されることがよかろうと思います。
 二番目の政教分離の規定については、これは絶対的分離ではないんだということを、これは最高裁判決で確認されておるわけでございますが、その目的・効果基準というものがもう少ししっかりと確認されるような憲法の規定に改めるというあり方があっていいんじゃないか。

 外国の例との比較でございますが、政教分離というのは、実は例が非常に少のうございまして、七カ国だけでございます。それ以外はむしろ、国教制、イスラムなんか全部そうでありますが、国教制が圧倒的に多い。それから、宗教公認制、例えばスペインなんかそうです。今までのカトリックとスペイン国家との特殊な関係にかんがみて、カトリックに対しては特殊な地位を与える、そういう宗教公認制、そういうものがございます。政教分離は七カ国のみであるということでございます。

 それから、最後にもう一つ指摘しておきたいのは、家族尊重の規定というものがあってもよいのではないか。この人間社会の基礎でございまして、世界人権宣言にもそういう言葉がございますけれども、私は、これから文明が進めばますます家族というものが危機に瀕する。しかし、やはり人間にとっての最後のよりどころは家族ではないのかという考え方から、家族というものを尊重する。
 とりわけ、我が国の法体系の中では、この家族というものの積極的位置づけは余りあるようには思えません。民法の中には家族という言葉はございません。そういうことを考えますと、家族という言葉をあえて憲法の中に入れて、その保護をうたってもよろしいのではなかろうかという考え方を持っております。
 いただいた時間をちょっとオーバーしてしまいましたが、以上をもちまして提起とさせていただきます。

 伊藤氏はキリスト教の影響を批判しながら、結局神道の影響を強めるよう薦めている。自己矛盾に気がつかないのだろうか。天皇制などなど。税金で卒業した学歴がなきますよ。少しは納税者の気持ちを考えてもらいたい。
                                  
 以下には質疑が続きますが、伊藤参考人の意見が自民党を代表した御用学者のように思いますので主張だけを見てください。
 さすが御用学者だけあり勉強はしている。自民党の議員すらもまともに発言ができていない。だが国民に対する説得力はない。我々もどう考えればいいのだろうか。 ??


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島小委員長 これより参考人に対する質疑を行います。
 質疑の申し出がございますので、順次これを許します。長勢甚遠君。

長勢小委員 長勢甚遠でございます。いろいろ示唆に富むお話、ありがとうございました。
 私は、戦争に負けた後、ある時期から、日本の国における人間関係が大変ぎすぎすしたものになっておって、極端に言いますと、言葉が通じないということがたくさん見られるようになっておりまして、それは文化その他の価値観が相当ずれが大きいということなんでしょうけれども、そのために、議論をしておっても対立だけになるというような社会になっているということを大変危惧いたしております。こういうことがいろいろ信じられないような事件が多発するとかいうようなことになって、まさに病んだ社会が進行しつつあるというような気がしております。

 病んだ国は自民党が作ってきたのではないか。自分で作って自分で心配しているのを「茶番」と言うのでなかったか。

 こういう人間関係の基準として我が国が持っておった優しさとか慈しみというものがだんだんなくなってくる。私は、雇用だとか福祉だとかを中心に活動しておるわけでございますが、この分野でもこういうことを非常に強く感じて心配をしておりまして、例えば雇用の問題でも老人の扶養の問題でも生活困窮者の問題でも、人間関係がきちんとしておれば解決しやすい、政策も立てやすいのですけれども、そういうことがないところではなかなか安定した政策、立法というものを構築することが、つくればつくるほどおかしいことになりかねないという心配すらしております。

 私は、こういうことになってきたのは、いろいろな原因があるのだろうとは思いますけれども、敗戦によってつくられた憲法が定着をしてきたということが相当大きく影響しているのではなかろうかなと思っております。このことは、いろいろな議論の中でも、口を開けば、これは憲法上の権利だとか、あるいは国の責任だとかさえ言えば、それを根拠にすれば全く問答無用と言わんばかりの議論が横行しておるというところにあらわれつつあると思っております。

 これでは、何のための憲法かわからないわけですから、こういうことのないようにするような、社会が安定するような、人間関係が安定するような憲法に見直す必要があるんじゃないかというふうに悩んでおると言ったら悩んでおるわけですが、しかし、憲法の規定を見ても、じゃ、どこがおかしいんだというと、別におかしいことは何も書いていないわけであります。

 しかし、少なくとも何でもかんでも憲法上の権利だとか国の責任だと言うことが正しいわけがないわけでありまして、そんな硬直的な議論の根拠になるのではなくて、もう少しみんながうまく生きていくためにはどうしたらいいかということを弾力的あるいは調和的に議論できるような、その根拠となるような憲法になってほしいなと思っております。

 日本国民ほど権利の主張の少ない国はない。日本国民は遅れている。それに対してもっと未開になれというのはいかがなものかと言いたい。

 ただ、これは、規定がそれほどおかしくないとすれば、単に憲法の位置づけなどについての理解がどうもおかしいというだけのことなのかもしれませんけれども、現実にはこういう風潮が定着をしておるわけですから、少なくともそれを是正する、適正なものにするという改正ぐらいはしないと、これはこのまま進行していってしまうと思っておるわけであります。

 こんな観点から憲法の規定を見直すとしたら、どこをどう直したらいいのかなということが、実は答えがなくて困っておりますので、何かこれについて御示唆がいただければありがたいと思いますが、よろしくお願いします。

 自分でどうすればいいのかわからないものが議員になって、国民に責任が取れるのか。こういう感覚のものが議員になること自体が問題ではないでしょうか。

伊藤参考人 実は、私も今の先生の御質問のような問題意識を持って考え、そして、今までお話しさせていただきました中でも、そういう立場で話させていただいたつもりでございますが、もう少し御質問に沿って確認させていただきますと、私は、今の憲法の規定そのものがそういうあしき現実というものを生み出しているという言い方はあえてしようとは思わないのです。ただ、憲法を解釈する過程の中で、その解釈がさらなる解釈を呼んでいって、そして長勢先生が御指摘なされたようなあしき風潮が一部に出てきたということではないかと思うのです。

 それは一体何かということでございますけれども、例えば憲法九十七条に、「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。」という条文があるのですね。
 これを解釈しまして、この「人類」というのは、日本人は入っていないんだ、西洋国民のことなんだ、とりわけこれはフランス革命やアメリカ独立革命の人たちの努力のことであって、日本は、自由獲得の努力というよりも、自由がなかった国だったんだ、こういう考え方が解釈の中で広げられました。

 そして、とにかく戦前の日本のものは否定されねばならないんだ。もちろん、否定されるべきものはあったかもしれません。だけれども、よきもの、あしきものを分別するのではなくて、とにかく過去は否定されるべきなんだ。とりわけ戦前の日本はすべて封建社会だったんだ、こういう言い方で、そこにある道徳も何もみんな否定してしまえ、こういう解釈を実は呼んだわけですね。その解釈を呼びかねない、九十七条にはちょっとそういう危険性もあるといえばあるんです。

 先ほど言いましたように、こういう九十七条の考え方の根本にある、例えばバージニアの権利章典には、「およそ自由なる政治を、あるいは自由の享受を、人民に確保するには、ひとり正義、中庸、節制、質素および廉潔を固守し、人権の根本的諸原則をしばしば想起すること以外には、方法がない」、こういう規定もあるわけです。あるいは、「お互いに、他に対してはキリスト教的忍耐、愛情および慈悲をはたすことは、すべての人の義務である」、こう書いているのですね。その上で、生来の権利というものを言っているわけですね。

 ところが、このバージニア権利章典の一方を取っちゃったんですね。そして、権利追求のことだけを九十七条でわあっと拡大しちゃったものですから、先ほど言っているように、その社会が育ててきたいわゆる歴史、文化、伝統を否定せよ、その中で培われた道徳を否定せよという議論になっていった。それが、やはり私は、今日の議論になっている。

 フランス革命を称して、先ほど言いましたトクビルという人が、フランス革命は、自由にとって大切なあらゆる制度を押し流してしまった、自由を主張しながら、自由の存立にとって必要なあらゆる制度を押し流してしまった、こういう言い方をしているのでありますが、これは非常に示唆に富む言葉でございまして、自由というものを、あるいは権利というものを確立させていくためには、古臭く見える、あるいは、ひょっとすると何か権利の敵であるかのごとくさえ見える、そういうものを実は慎重に大切に守り、それをよきものとしてさらに発展させていくという努力がやはり必要で、それを成功させた国が自由というものを実は確立できているんだということだと思うんですね。

 だから、そういう意味で、先ほど私は、公共の福祉という問題も、例えば道徳を、ほかの国のように、我が国でももう一度確認してもいいんじゃありませんかということを言ったのは、そういう意味でございます。よろしゅうございますでしょうか。

長勢小委員 時間が切れたようなので、なるべく簡単に、関連しますので、もう一問だけさせていただきたいと思います。
 先ほどの質問とも絡むのですけれども、人権というのは国と国民との関係を規律する部分が多いんだろうと思うんですけれども、そのことから、先ほど言ったように、国の憲法上の義務というか、国民の国に対する権利が際限なく拡大していって、何か、国の権力と国民の権利と、この二つしか世の中にないような話になりつつあるような気がして、おかしなことだなと思うんですね。当然、その中間に、自己責任であるとか、あるいは社会の常識、社会通念というものがあって、それで世の中は成り立っていなければ、先ほど言ったように、大変ぎすぎすしたものにならざるを得ない。

 そういう意味で、憲法に保障された権利、国に対する権利、あるいは国の義務というものと、そういう自己責任の範囲というものと、また、あるいは社会通念、常識というものの範囲がそれぞれ、当然、区分、区別されて議論されるべきものだと思うんですが、そういう議論は非常に弱くなってしまっておるような気がします。

 こういう観点から、憲法の規定を見直すということをする。その区分があれば、その区分の基準をきちんと書くというようなこともあるのかなと思いますけれども、これもなかなか知恵がないのでございますが、御示唆をいただければありがたいと思います。

伊藤参考人 これも直接的なお答えになるかどうかわかりませんが、私は、憲法の規定というよりも、実は、憲法というものは、その背景に、やはり社会の常識あるいは精神、モンテスキューの言葉をかりれば法の精神というものがあるんだ。これを踏まえて権利というものも存在するんだ。その権利というものも、実は歴史的に形成されてきたものなんだ。その歴史的に形成されたということは、いろいろな人間の相互行為の中で、いろいろなテストを経て、今日その権利がここに確立されているんだ。私は、そういういわゆる法思想というものを強調する、あるいは、そういう法思想を否定しない憲法をつくるということなんです。

 そういう書き方は、ではどうしたらいいのかといいますと、今私はここで案文を持っているわけではございませんけれども、実は何も特別なことを言っているわけではございませんで、ほかの国の憲法を広く読んでいただきたいと思います。ほかの国の憲法は、実は、その国その国の法の精神というものを非常に大切にしております。

 ところが、日本の場合は、やはり占領軍が、日本は悪なんだ、これを否定しなくちゃいけないんだという形で、全部押し流すという考え方で来ましたので、実は、日本には法の精神はないんだという前提で出発しているんですね。だから、どうしても、そういう憲法以前にあるものを否定するんだという構えが強調されてしまうわけです。

 最近はそういうものはだんだんなくなってきているとはいえ、そういうものをもっと強調する議論に変えていくならば、ひょっとすると、今の憲法の規定でも私はうまく機能するというふうに思っておるわけでございます。

長勢小委員 ありがとうございました。

島小委員長 次に、今野東君。

今野小委員 大変興味深くお話を伺いました。ありがとうございました。
 ただ、先生のお話と私の考えとは相入れないところも多うございまして、特に、権利というものが、共同体から付加された権利である、国というところからいただくものであるという考え方は、目まいがするほど戸惑いを感じます。

 お尋ねしたいのですが、瀋陽の、あの北朝鮮の五人の方々は、国があるから権利があるというふうに私の耳には聞こえたのですが、私は、あの五人の方々は、国家を捨てても自由を求める権利があるのだと思いますが、それは違う。そのあたりのところはちょっと確認をさせていただきたいと思います。
 済みません、三点ほどお尋ねしたいので、できるだけ短い時間でお答えいただければありがたいです。

島小委員長 一人当たりの持ち時間が十分しかございませんので、よろしくお願いします。伊藤参考人。

伊藤参考人 まず最初に、私の発言をちょっと聞き違えておられるようでございまして、国家からあるいは共同体からいただくなどということを、私は一言も申しておりません。これは私の発言をある意味で曲げられておるわけでございまして、それについては強く指摘させていただきたいと思います。そんなようなことは、私は一切申しておりません。

 いわゆる国家共同体、国家という言葉が嫌なら、政治共同体でも結構なんです。国家というものの定義が、政府なのか、あるいは政府権力なのか、あるいは歴史共同体としての国家なのか、こういう問題はございますので、私は、国家という言葉が嫌なら、あえて政治共同体でもよろしいのですが、その政治共同体の中で、いわゆる人と人の相互行為の中で、ここはある意味で聖域ですねという形で観念が確立されていって、それが権利として保障されていったものだ、そういう言い方をしたわけであって、何か、権力者がいて、おまえに遣わそう、そういうものだなんということは私は一言も言っておりませんので、そのことだけは繰り返し指摘しておきたいと思います。それでないと、議論が全部ずれますので。そのようなことは、私は一切言っておりません。これは私の一番言いたいポイントでございますので、あえて確認を求めたいと思います。

 それから、北朝鮮のあの五人の方々のこと。これも、私はそのような言い方をしたわけじゃございませんで、北朝鮮の国家の中で、ああいう政治体制あるいはああいう政治が行われていれば、いかに憲法で、極端な話、権利ということが書かれておっても、これは絵にかいたもちだということでございます。

 とりわけ、その国家が国民に食物も与えることができなくなって、食べるものもなくなって、脱出せざるを得ないとか、そういうものになったら、それは、いかに人間生来の権利というものがあると言ったところで、むなしいということでございます。
 だから、私は、北朝鮮という国家について、これは本当に私は、同情を込めて、深い悲しみを込めて言うわけでございますけれども、あそこには観念の上では生来の権利はあるのでしょうけれども、しかし、それはあくまでも政治思想として存在するだけであって、いわゆる実定的な権利としてはないのですね。実定的な権利としてなければ、あのような悲惨なことが起こるということでございます。

 それから、あの五人を救わねばならないという国際世論が起こりました。これは、それぞれの国において国民の権利を確立している国民たちの議論なんですね。その国その国で、そういう実定的な国民の権利を保障する、そういう政治が行われているゆえに、そういう国民が世界の各国から発した言葉が、あの五人を救えという国際世論になっているということでございまして、私の議論と何もそれは矛盾はしないはずだと私は思うわけでございます。

今野小委員 付加された権利というところを私なりに解釈しまして、それをいただくというふうに表現をいたしましたが……(伊藤参考人「負荷というのは、済みません、よろしいですか」と呼ぶ)

島小委員長 まず、こちらの方が話して、指名後、答えてください。

今野小委員 それが先生の考え方と少しずれていたのであるとすれば、その言葉そのものは取り消してもよろしゅうございます。
 さて、私は先生のお説、幾つか勉強させていただきましたが、その中で、活力ある経済を築き上げることができたのは、よき伝統的社会の存在があったからだというフランシス・フクヤマ氏の所説を紹介して、個人、人権という観念を前提に置いて、伝統的な共同体は解体されるべきだという意見を、そうではないのだという論で展開していらっしゃるというふうに思うんです。

 私は、よき伝統的社会に支えられて活力ある経済が築き上げられてきたということも確かにあるかと思います。しかし、経済効率を優先する余り、個人や人権を埋没させてきたというのが、今の病を抱えた経済大国日本なのではないでしょうか。雪印のあの一連の事件に見られたような、ラベル張りかえのような、あのようなみずからの利益だけを追求して社会の利益を顧みない企業の姿勢というのはどこから来るのでしょうか。

 私は、企業のモラルというのは個人から出発するのだと思うんです。個人が発言し、その発言した個人の人権が守られる。個人、人権が生き生きと存在する経済行為こそ活力ある経済社会ではないかと思うのですが、お考えを、済みません、短くお願いいたします。

伊藤参考人 まず、負荷という言葉は、この字を見ていただくとわかりますように、そういう意味ではございません。これは、先ほど言いましたように、例えばその人間の言葉とか文化、伝統というものが内部化されたという意味です。つけ加えるという意味じゃございませんので、それをまず指摘しておきます。

 それから、フランシス・フクヤマの、よき伝統的社会が今日の経済大国をつくっているということを私は言ったわけでございますが、今おっしゃったことについて、私は基本的には何も反対ではございませんで、あのような企業のモラルの乱れは、これは個人というものの未確立から来るということで、私は全然異論はございません。

 私が言いたいのは、日本の伝統的な歴史、文化、伝統と私は言うときに、確かにそういう個人というものを押しつぶすような全体主義的なものがあったことを私は否定するわけじゃないんです。しかし、一方、歴史、伝統の中に非常に個人というものを大切にする議論もあったんですね。あるいは、そういう歴史、伝統もあるんですね。なぜそれをもっと我々は前向きに継承しようとしないのかという意味で、あえて言わせていただいたということ。

 それから、個人の確立ということを言うんですが、その個人はいかにして確立するか。いきなり確立するかと言われてもだめなわけで、私は、自分の哲学は共同体論というものをベースにしておるんですが、その個人というものが確立するに当たっても、それは、いわゆる共同体のいろいろなよき伝承物、そういうものをそしゃくすることの中でしか個人の確立は実はないんだということを言いたいわけであって、私は個人を否定しているわけではございません。そのことを繰り返し言いたいと思います。

○今野小委員 それから、先生のお書きになった「憲法かく論ずべし」の中の「「神の政治」と「人の政治」」というところで、先生は、神の政治が人の政治になったという宮沢俊義さんの説に、アメリカのバージニア州の権利宣言、今もおっしゃっていましたけれども、あるいはアメリカの独立宣言を引いて、ここですら神の権威が前提になっているのではないかと言っておられますが、私は、この持論には時代的な相違の認識が欠けているのではないかという印象を持ちました。

 一つの伝統的な宗教を、先生が主張されているような理由でこれを持ち込みまして、アメリカと同様に複雑化して多様化している現代の日本社会に当てはめることは、政治的あるいは国家主義的理由による前時代的試みと言えるのではないかと思いますが、そのあたりはいかがでしょうか。

伊藤参考人 私は、前時代的試みを主張しているわけではございませんで、いわゆる事実を指摘しているつもりでございます。
 私は、宮沢俊義さんの、あの方はネーミングの名人でございまして、神の政治と人の政治、こう分けちゃう。まず、この簡単な二分法が、大切な、微妙な違いみたいなものを全部流した議論になって、非常に乱暴な議論になっているという、ある意味でのやゆの意味も込めてあれを書かせていただいたんでございます。

 今のアメリカについてどうだという言い方をしますが、例えば、ブッシュ大統領がつい先日中国の北京の清華大学へ行きまして、学生に向かって演説しておりまして、自由というものは余りにも自分勝手なことであって混乱につながるではないかと中国の学生たちが言うわけですね。それに対して、そうじゃないと。自由は多くの権利をもたらすが、重要な責任を果たすことも期待している、我々の自由は道徳によって方向性と目的を与えられ、強固な家族、強固なコミュニティー、強固な宗教組織によってつくり上げられ、強固で公平な法制度によって監督されているのである、自由というものをただ上っ面だけとらえないでくれ、その奥にはそういう宗教的な精神もあるんだと。

 もっとどっきりするようなことを言っておられまして、米国は信仰によって導かれている国である、ある人がかつて米国を教会の心を持った国と呼んだことがある、九五%の米国人が神を信じると答えており、私もその一人である、そういうことまで言っているんですね。

 そういう皆が正しいと信ずる、そして、敬虔に物を考える精神がアメリカの自由や権利を成り立たせているんであって、ただ、中国の学生さんたちがおっしゃるように、自由は混乱へのいざないであるというような言い方はやめてもらいたいという言い方をしているんですね。

 ですから、私は、決して歴史の相違を無視しているわけじゃなくて、ある意味でそれは、宮沢さん的な粗っぽい言い方をすれば、神の政治と言ってもいいじゃないかと私は言っているわけであって、少なくとも、戦前の日本を神の政治だと言うんなら、今のアメリカだって神の政治ですよ、そういう言葉の問題として私は言っているということでございます。

島小委員長 時間が来ております。ありがとうございました。
 次に、太田昭宏君。

太田(昭)小委員 公明党の太田昭宏です。
 私も、いわゆる抽象的個人というもので人間ははかれるものではない。フランス革命以来の、人間は自由で平等で上澄み液のような尊厳なるというものではない。生まれながらにして自由でもなければ平等でもない、宿命にとらわれたというところの現実から出発した人間観に立たなくてはいけない、こう思っております。

 また、国家論からいきますと、二十世紀はネーションステーツという、ネーションとステーツという違う要素、ある意味では民族的なネーションあるいは文化的なネーションというものと、機能国家的な、いわゆるユナイテッドステーツということもそうなんですが、そうしたステーツとが一緒になって、そして軍事的な領土の覇権争いというのが全般的な二十世紀前半の姿であったというふうに私は思うんです。

 そこで、非常に大事なことだと思うんですが、人は機構に所属はするけれども、決して機構によって生きるわけでもない。文化とかパトリという、文化を呼吸して生きていくという現実をやはり見ていかなくてはいけないし、また、人間は生物的に生きていくというのではなくて、ある一定の文化形態や共同精神的な集団である民族の中に生きてきているという、それらを前提にしてお聞きをしたいと思うんです。

 そこで、パトリとかあるいはいわゆるナショナリズムというようなものが、必然的に、むしろパトリという郷土意識とか、あるいはもっと言いますとエスニックといいますか、文化的なそうしたものが必要であるという認識をするんですが、それがネーションという形で転化をして、日本の歴史の中に、いつの間にかパトリというものがネーションへと引き取られていって、そして国家主義的な戦争という形になっていく。そこの、郷土意識や文化というものを内包するという、くみ上げていくという作業が、いつの間にかナショナリズム的な、このナショナリズムというのは善悪いろいろあるんですが、ネーションステーツが力ずくで不幸な歴史というものを招いたという、どこかに、そこにひび割れが生じたか、あるいは変化が生じたか、そうしたことが成功、失敗の原因としてあったと思うんです。

 国家は我々国民のものであるということが、いつの間にか、国家は天皇のものであったり、あるいは国民は天皇の国民であったりというような形で、国家というものが優先的に展開するというような事態が我が国の不幸であって、その非常な反省というものが善悪一気にすべてを押し流すというような形になっているような気が私はするんです。

 その辺の歴史の検証も含めて、日本はどこでどういう形で誤ったのか、そして、国粋主義的な、あるいは国家主義的な傾向にどうしてもパトリとかエスニックというものは行きがちなんですが、それをどういうふうに抑えていったらいいのかということについてお聞きをしたいと思います。

伊藤参考人 非常に重い質問でございまして、どのように答えたらいいのかちょっと混乱しておるのでございますけれども、我が国の歴史ということからいきますと、日本が明治維新によって国際社会の中に窓を開いた、このときの極めて特殊な事情があった、これをかなりしんしゃくする必要はあるんだろうと思うんです。

 というのは、当時日本を取り巻いていた帝国主義列強というものに対して、日本は大変な脅威を覚えたということは間違いないし、とりわけロシアの脅威というものは現実の脅威だったと思うんです。そういう脅威の中でネーションステートを築いていかなくてはならなかったということの中で、ある意味で、そのナショナリズムが必要以上に強調されたというものも、一歩譲ればあったかもしれないというふうに私は思うんです。

 ですから、私は、過去のものをいろいろ、どこで間違えたかということの議論は、これは冷静になされるべきだと思いますが、そのときに、日本だけがひとり相撲して、暴発して何もかも失ったんだというようなとらえ方ではなくて、当時の国際社会のそういう与件に対して日本が応答していく中での問題だったんだろうなというふうに思います。そういう中で、ナショナリズムというものが時には暴走する問題があったということは、私は認めるわけでございます。

 それでは、そのナショナリズムというものをどういうふうに評価したらいいか。これはしかし、日本だけが間違っているわけでもないんですね。世界の歴史を見ますと、ナショナリズムは至るところで失敗しているんですね。だからといって、ではナショナリズムは否定できるかというと、そういうことはないわけでありまして、そういう高い授業料を払って、失敗を繰り返して、その中で学んで、そして第二次世界大戦後、国際連合のもとでの国際社会を再出発させていった、その経過が私は非常に大切なような気がするんです。

 ということは、何を言いたいかといいますと、インターナショナルということなんです。ナショナリズムが暴発するがゆえにナショナリズムを否定するのではなくて、そのナショナリズムをいかにコントロールしていくかという議論だと思うんです。そのナショナリズムをコントロールするにはどうしたらいいかというと、いきなりグローバリズムに行くのではなくて、インターナショナリズムであって、ナショナリズムとナショナリズムの間の間合いをいかに理性的にとっていくか、そういう努力が今問われているんだと思うんです。

 それはいきなり培える能力でもございませんし、今までの歴史を十分に踏まえながら、またこれから時間をかけて、そういうナショナルとナショナルの間合いのとり方を学んでいくしか道はない、一気に何かが実現していくような、そんな王道はないと私は思っております。

太田(昭)小委員 私は、グローバリゼーションというのは必然だというふうに思いますと同時に、ユナイテッドステーツもそうだし、シンガポールもそうかもしれないけれども、人工的なものは、必ずそこの根源の、自分は一体何なのか、我が国は一体何であるのかということが問われてくると思う。

 そこで、EUがEUという形を強めれば強めるほど、それぞれの民族が、自分たちは一体何であるのかということが問われ、そして、移民という形を契機にして、オランダとかフランスのいわゆる右と言われる現象が起きてきていて、これは非常に今日的な大きな問題であるというふうに私は思っているんです。むしろ、ハンチントンが言うような文明の衝突というよりも、もっともっと共同体的な、あるいは文化の衝突の時代というのが二十一世紀ではないのかというとらえ方を私はしているんです。

 そして、先ほど、ロックの背後には神がある、こう言いましたが、しからば日本の場合の、抽象的個人ではなく、その背後にある共同体的背景というものは、先生は一体どういうものであるというふうにとらえているのか。
 私は、日本という国は、儒教もあり、仏教もあり、あるいは神道という形もあり、自然風土もあるという、さまざまな人間の知恵の集合体という、非常に特殊な、優秀な日本人というものを認識して、文化というものを認識しているんですが、いわゆるヨーロッパ的な神というものではない、日本の背後にある共同体的背景の文化の本質は一体どういうものであるというふうにとらえていらっしゃるのか、お聞きをしたいと思います。

伊藤参考人 これまた非常に難しい問題をいただいたわけでございますけれども、まず、グローバリズムでございますけれども、私は、確かに経済においてはグローバリズムは一つの流れであるということは認めないわけではないんです。しかし、例えばEUのことをおっしゃいましたが、あれはネーションステートの克服の過程というとらえ方ももちろんできないわけじゃないわけですが、私は、ネーションステートの再編成の過程だというとらえ方もあり得るんじゃないかと思うんですね。だから、EUが一つのある意味でのネーションステートになり始めているという現象だともとらえられるような気がするんです。

 もちろん、その広くなった分、地域というものが逆に強調されるということがあって、地域と地域のあつれきみたいなものが起こっているということで、ですから、私は、その現象を見ていくならば、必ずしもグローバリズムという文脈だけではとらえ切れないんじゃないかという考え方でおります。やはり、人間をくくる一つの枠みたいなものは存在する、また、これからかなりの長い間にわたって存在し続けるだろう。そこがまたあつれきの根源になることも、これはもう否定しようがないわけであって、それをまさに人間の知恵を振り絞って乗り越える方法を考えていくしかないし、そのために外交があるんだと私は思うんです。そのことが前段でございます。

 それでは、いわゆる西洋社会における神に匹敵するようなものは日本は何なんだと言われるわけでございますが、これはもちろん一言で答えられるものではございません。一番前提に縄文的な文化というものがあって、そこからまた神道的なものが形成されて、そしてそれがいろいろな外来文化を吸収して今日のものに至っていったということだと思うんですが、それをある意味で、私は、教義化することの恐ろしさというものを感ずるんです。

 今までも、いろいろ日本の文化で、例えば江戸時代の平田神道なんというのは、西洋のキリスト教的なものに刺激されて、日本のそういうものもある意味で教義化しなくちゃいけないという形でやったわけですね。その結果、かなり、排他的と言ってはなんですけれども、身動きのとれないものをつくってしまったんですね。

 私は、日本のよさは、そういう教義化し、体系化することにあるのではなくて、今までの日本の流れというものを、ある意味で、あれはいい、これはいいというのじゃなくて、全部受け入れて、その中で今日何が伝えられてきて、何が我々が継承すべきいいものなのかということを現実的に議論していくしかないんじゃないか。

 といって、それは全く抽象かというと、そんなことはないわけで、我々日本人同士話をすれば、ああ、お互い日本人っていいねと共感し得るものがあるわけですね。その共感の基盤となるものを、私は、それを明確に定義づけなくても、まずそれを大切にするというところからスタートしましょうよという、あえて形而上学は立てないということで議論をしているということでございます。ですから、ちょっと御満足いただけない結論かもしれませんけれども、私はそういう姿勢をとっているということでございます。

太田(昭)小委員 ありがとうございました。

島小委員長 次は武山百合子君ですが、一人の持ち時間は十分になっております。この時点、三人終わった段階でもう十分延びておりますので、いろいろ御配慮をよろしくお願いします。
 武山百合子君。

武山小委員 武山百合子です。
 きょうは、素朴な疑問についてお話しいただきまして、ありがとうございます。アメリカ、フランス、イギリスの憲法の話も出ましたけれども、すなわちその国のはぐくんだバックグラウンドをもとに法の精神が生きているわけですね。ところが、日本は占領軍によって否定されてしまった。
 それでは、先ほどお話にありました、我が国憲法が前提とする人間観、抽象的個人、悪を犯すこともある人間という視点の欠落、自己制約の論理の不在ということで、なぜ今まで、五十年も戦後たっているんですけれども、議論しなかったんでしょうか。

○伊藤参考人 これは、本当に私も疑問に思うんです。私は専門の憲法の学者ではございませんのでそんなにたくさん本を読んでいるわけじゃございませんけれども、憲法の先生方のお書きになられた本を読みましても、今私がここで提出しているものに対する問いかけというものは余りないんですね。そういう議論がすぽっと抜けているんです。私は外国の憲法学を勉強したことはございませんのでよくわからないんですけれども、少なくとも、例えばイギリスなんかではそういう接近法はとっていないはずだと思うんです。コモンローということからして、やはり歴史、伝統というものを大前提にして、そしてその中で歴史的に形成された法というものを議論しなければ、そもそも議論が成り立たないわけです。しかし、日本の憲法学はなぜかそういう議論が行われてこなかったと思わざるを得ないんです。

 私、ちょっと個人的に、最近京都大学をおやめになられましたが、佐藤幸治先生の憲法の教科書というのは非常によくできていると思うんですけれども、佐藤幸治先生は非常に哲学しつつ憲法解釈学を展開しておられるように思うんですが、その佐藤幸治先生のものですら、人間は人格的存在であるということをぽんと出されるんですね。何でそんなことが言えるんですか、あるいはその人格とは何ですかというと、カント哲学的な何かが出てくるのかもしれません。だけれども、日本人とカント哲学といきなり結びつけられても困るわけでございまして、ですから、お答えになったかどうかわかりませんが、私自身がそれを聞きたいということでございます。

武山小委員 国全体が今、このままでは本当に時代にそぐわないということでこのように今議論しておるわけですけれども、先進諸国の場合、その都度その都度社会状況に合わせて憲法は改正してきているわけですね。欠けているものを入れ、そして今まで役割を終えたものは削除していくという。ところが、五十年たって、十年、二十年は戦後本当に大変だったと思います、廃墟の中から生きていかなければいけない。ところが、五十年もたってしまった。その間、本当に何をしていたのかなと思いますよ。
 先生は、最近こういう考え方に整理されてきたのか、もともと若き日から疑問を持っていたのか、その辺の感想を聞かせてください。

伊藤参考人 私は、確かに若いころからこの日本という国は好きでございましたが、今言った歴史的共同体論的アプローチというようなことを意識して考え始めたのはここ十年くらいでございます。そんなことを言うとちょっとおかしいかもしれませんが、やはり年齢があったんではないのかなというような感じがしますね。この年でそんなことを言うのもなんですが、やはりこの世の中のよいことも悪いこともいろいろ自分なりに経験してきて、そういう中で相対的な視点みたいなもの、あるいは現実主義的な視点というものですね。一つの公理からすべてを割り切っていくような、そういう合理主義的な論法というものに対して非常に疑問と同時に違和感を感ずるようになったということでございましょうか。そういうことを私は今とりわけ感じてこういうことを主張させていただいているということ。

 先ほどの質問を今思い出して答えて申しわけないんですが、この五十年間どうしてそういう議論がされなかったかといいますと、例えば三十年前に私が今言っているようなことを憲法学者が議論したら、多分憲法学界から追放されたでしょうね。追放されるというと、だれが追放するんだという話ですが、まあ、いたたまれなくなったでしょうね。そういう状況もあったんじゃなかろうか。しかし、さすがに、今日に至っていろいろな学問が発展し、実証的なそういう学的成果が積み上げられる中で、やはりこれは言ってもいいんじゃありませんかというようなことが起こってきたんではないかというようなことを感じます。

武山小委員 それでは、先ほど三番目にお話しくださいました国民の義務について。
 今、有事法制について議論が国会で行われております。私も本当に、国民の義務なくして国家というものは成り立たないと思うんですね。それで、今まさに、自分の国をみずから守るということは民主主義の基本原則ではないか、私、そのとおりだと思うんです。
 それでは、今この有事法制において、先生のお考えで結構なんです。国民の義務は、自発的協力だけに頼ることは本当にできないと思うんですね、いざ有事のとき、先生はどういうお考えでしょうか。

伊藤参考人 この有事法制、今議論されているものの細かいものを一つ一つ私検討したわけじゃございませんので大ざっぱなことしか言えませんが、私は、自衛隊法をつくり、自衛隊というものを創設した以上、実はその自衛隊の創設とともにあるべきものであったんではなかろうか。なぜなら、この有事法制というものがなければ、いざというときに、例えば防衛出動がかかったときに、自衛隊はまずその瞬間から動けないわけですね。がんじがらめのいろいろな国内法があって、動けないわけです。ですから、自衛隊をつくった以上、そのつくるかつくらないかにおいて議論があったことはもう承知の上でございますけれども、つくった以上は、この有事法制というのはなければならなかった問題であろうというふうに思います。

 ただ、例えば西ドイツにおける国家緊急権というようなものから比べますと、まだまだ何か迷いが多い。といって、私は、いきなり西ドイツみたいなところまで日本が議論ができるとも思っておりませんので、これは漸進的にいくしかないと思っているんですが、そういう問題もまだまだ残しているかなということを感じます。

武山小委員 いろいろ今までこの憲法調査会で議論はされてきましたけれども、きょうのように、自分の国をみずから守るということは民主主義の基本原則であるということをきちっと言う方はなかなか少ないわけです。思い切ってきちっとここの憲法調査会でおっしゃられたということは、本当に大変な提案だと私は思います。
 それで、外国の例との比較ということで余りお話しいただけなかったんですけれども、まず一番近い韓国の例は先生おわかりですか。兵役の義務はあると思うんですけれども、あの国は。韓国の例でおわかりの、この国民の義務の、特に有事におけるお話をしていただきたいと思います。

伊藤参考人 韓国の場合は、第三十九条に国防の義務というのがございまして、第一項「すべて国民は、法律の定めるところにより、国防の義務を負う。」とありまして、第二項「何人も、兵役の義務の履行により、不利益な処遇を受けない。」と。これは具体的にどういうことかわかりませんが、例えば徴兵制で行っている間に会社を首になるとか、そういうようなことも含めてあるのかなということでございますが、こういう規定がございます。
 それから、先ほど言いましたように、総則的規定で、国家の安全ということによって権利は制限されるんだという規定もあるということですね。

武山小委員 最後になりますけれども、日本の国民の義務として、今お話しいただいたんですけれども、これをやはり国民にきちっと周知徹底させていかなきゃいけないわけですね。それには、オブラートに包まないで、これから、立法府、もちろん私たちの責任でもあるわけですけれども、はっきり伝えていくという意味では、先生はどんな役割を果たしていただけますでしょうか。

伊藤参考人 私の役割なんというものは知れているものでございまして、本当にどれだけのことができるかわかりませんが、私は、先生が強調していただいてとてもありがたかったんですが、民主主義、とりわけ国民主権ということを日本国憲法はうたっております。そもそも国民主権とは何ぞやというときに、自分の国は自分で守るんだ、自分の国の主人公なんだから、主人公が、守るときだけは別ですよ、これはちょっとおかしな議論になるわけでありまして、私は、そのことは少なくとも包み隠すことなくいろいろなところで議論していきたいと思います。
 ただ、政治の世界でということになると、これはしばらく時間がかかるのかなという感じがして、できれば先生方のこういう問題の御理解をいただきたいというふうに思っておるのが正直なところでございます。

武山小委員 ありがとうございました。

島小委員長 春名直章君。

春名小委員 日本共産党の春名直章でございます。
 私も、三点ほどお聞きしたいことがありますので、よろしくお願いしたいと思います。
 きょうの参考人のお話の一つの核心は、国家あっての権利の存在、国家あっての権利の保障ということが基本になるんじゃないかというお話だったと思うんです。

 私は、考え方を根本的に異にしておりますので、それは申しわけないんですけれども。ただ、近代憲法の成り立ちということを考えたときに、やはり、国家権力から国民の人権、権利を守る、そしてそのために強大な国家権力を制限していく、そのルールとして、そして社会や政治を統一していくルールとして、そういう性格のものとして近代憲法というのは誕生してきたというのが私は歴史だと思っているんです。そういう性格のものである、そもそも。

 そして、現代憲法になれば、その中でも、その基本的人権の中で、先ほどおっしゃった社会権だとか、そういう豊かな人権規定がまた運動と相まって発展していくという歴史認識といいますか憲法観を私は持っているわけです。これは通説的なものじゃないかとは思うんですが、そこに石を投げられたわけなんですけれども。

 そういう点に立って少しお聞きしたいと思うんですが、参考人も、「憲法かく論ずべし」という本の中で、立憲思想の問題についてもお触れになっていると思うんです。それで、立憲主義ということも言いますと、国民の人権を保障するために国家に対して権力を付与するけれども、その行使に当たっては人権を侵害しないように制限を加えるということではないかと私は思うんです、この立憲主義というのは。ですから、そういうふうに立憲主義を理解すれば、参考人が言われるような国家あっての権利保障というのは、どうも考え方が逆転してしまうんじゃないかというふうに認識するわけなんですが、その点はどうお考えでしょうか。

伊藤参考人 今の御質問、もっともな御質問だと思うんですが、まず、国家以前に権利というものはあるものじゃないかということにこだわっておられるんだと思うんですけれども、私は、それは一つの政治思想にすぎないと思っているんです。

 政治思想としてそういう考え方があることを私は否定するんじゃないんです。ただ、その政治思想においても、いかにそれが立派な政治思想であっても、やはり国家権力によって実定化されないと、それは権利にならないんだ、意味ある権利にならないんだと。例えばボスニア・ヘルツェゴビナで、いかに政治思想上の権利を訴えたって、殺されたらそれっきりなんですね。やはりその枠をつくって、平和を保障してもらって、その中で存在するがゆえに、意味のある実定的な権利というものを我々は享受することができるわけです。

 といって、私は、国家の権力が無制限だと言っているわけじゃないんです。私が言うように、共同体論的、歴史論的アプローチというのは、その国家というもの、それはどちらかというとネーションとしての国家というところからまずある意味で出発するんでしょうけれども、そのネーションの中にある人と人が、いわゆる人間関係を、政治行為を繰り返しながら、失敗を繰り返しながら、これだけは聖域ですねというものを確定していったのが、権利というものが法として確立されていく過程なんだというふうにとらえたらどうかということを先ほど申しました。そういう考え方でいいますと、国家が先か権利が先かという話じゃないんですね、実は。国家がなければ権利も成り立たないし、権利のない国家もないんです。人民に権利を保障することのできない国家なんというものは、それは国家としては成り立たないわけでございます。

 私は、ですから、その両立の道というのは、実は、一方でばんと線を引くみたいに簡単にはいかないわけであって、そこにもちろん解釈をめぐっての紛争も起きる。ただ、それを一つ一つ、ごちゃごちゃになった糸を解きほぐすようにしてやっていくのが、これが政治というものではないだろうかというふうに考えております。

春名小委員 やはりちょっと違いますねということで申しわけないんですけれども、考え方の違いは当然あるものですので、それを議論すれば私はいいと思っておりますので。

 先生のお話を聞いていると、どうも頭の隅に明治憲法を思い出すんですよ。臣民の権利と義務という項目が出てきまして、法律の範囲内で権利は保障しますということが出てきますね。しかし実際は、その法律が、さまざまな法律ができて、かけらもなくなってしまって、そのことを通じて、日本の歴史からいえば痛苦の反省があるわけです、侵略戦争へ突き進んでいく道になっていったという。やはりその反省をどう生かすかということが問われていると思うんです、日本の歴史から見て。先ほどアメリカあるいはヨーロッパの淵源というお話がされたんですけれども、日本の歴史から見て日本国憲法がどういうものかということが私は大事かと思うんです。

 その点で、二点目の質問になるわけですけれども、先ほど歴史や伝統や文化が全部押し流されてしまったんじゃないかというお話があったんですが、私は幾つか考えなきゃいけないことがあると思うんです。それは、戦前にも、大正デモクラシーとか、非常にあの暗い時代にも、言論や出版の自由を求める運動とか、そういう人民、国民の運動があって、そのこともあって、不断のいろいろな努力によって、九十七条の話なんですが、憲法がつくられてきた。その努力が結実しているという面があると思うんですね。

 それからもう一つは、やはり国家権力によって人権が脅かされることを通じてあの痛苦の反省が生まれてしまったわけですので、それを否定する、ポツダム宣言にも基本的人権をしっかり入れるべきであるという宣言が入る、それを受けて憲法ができるというこの歴史、それから国民の運動、そのあたりをどう御認識されているのかをお聞かせいただきたいと思います。

伊藤参考人 多分、そこのところがかなり違うところだと思うんです。これは、違うのは仕方ないので、その上でちょっと聞いていただきたいんですが、例えば、明治憲法は臣民の権利及び義務と書いているという、それがまず異常なんだという言い方ですが、今のイギリスの憲法、不文憲法でございますが、少なくともその不文憲法の中の柱となっている権利の章典、今も意味を持っているわけですが、これは臣民の権利なんです。

 ですから、伝統的国家というのは、やはり古色蒼然としたものがあるわけで、イギリスの議会へ行かれれば、あの古色蒼然とした雰囲気というのは、逆に楽しんでいる部分があるんですね。と言ったら、ちょっとおまえ、ふまじめだと言われるかもしれませんけれども、私は、そういう時代的なものに余り揚げ足取る必要はないと。

 当時は臣民だったんです。今は国民。今、臣民の権利にしろというんだったら、これは目くじら立てなくちゃいけないけれども、当時、君主制国家というのはあったわけで、君主制国家は、臣民という位置づけになるんですね。そして、現に今でも臣民の権利という位置づけはイギリスにあるわけですから、貴族もおるわけですから。ですから、私はその言葉に余りこだわる必要はないと思います。

 それから、法律の留保ということをおっしゃって、明治憲法は権利は認められなかったんだというおっしゃり方をなさいましたが、これは、私、この短いお答えの中で全部言うことはできませんけれども、ただ、自然権思想というのは、明治憲法がつくられたときは世界の潮流ではなかったんです。当時は法律の留保は当たり前なんです。ですから、世界じゅうの憲法があのような書き方をしていたんです。これはお調べいただければいいと思います。アメリカ憲法を除けば、みんなああいう法律の留保の規定を持っていたんです。

 それから、戦後もああいう法律の留保の規定を持っているところがまだあります。もっと言い方を変えますと、フランス人権宣言をよく読んでいただくと、あれもある意味では法律の留保の規定があると言えないこともないんですね。ですから、法律の留保という言葉で明治憲法を全部否定するというのもどうかなという感じがします。

 それから、私、かつて治安維持法で逮捕された人の話を聞いたことがあるんですが、人間性を全部踏みにじった、押し流したのがあの暗い時代という言い方をされますが、その治安維持法で捕まった方は、自分が生きて出てこれたのは、まあ生きて出てこれたのはなんて言い方がそもそも暗い時代といえば暗い時代なんでしょうけれども、生きて出てこれたのは明治憲法のおかげだったと。自分は、官憲の執拗な追及に対して、帝国憲法におけるいわゆる臣民の権利及び義務の、その権利を主張して自分の身を守ったという証言を私は聞いたことがございます。

 ですから、確かにあれは異常な時代であったことは事実でしょうけれども、法すべてが流されたわけではなかったというふうに私は認識しております。そこら辺、ちょっと違うかと思います。

島小委員長 恐縮ですが、質疑時間が終了しましたので。

春名小委員 質問を終わりますので、最後にちょっと、済みません、一言だけ言わせていただいて終わりたいと思います。
 先ほど、法律によって留保されているということだけで考えちゃだめだということを言われたんですが、そういう戦前の反省もあって、何の制約も持たずに三十条の人権を豊かに規定したのが日本国憲法だと私は思っています。その日本国憲法の人権状況が、本当は質問したかったんですが、残念ながら、今日に至るまで実現されていない、あるいはないがしろにされているというところに今日の焦点が私は最もあると思っておりますので、その点でも大分意見は違うかもしれませんが、また議論しましょうということで終わりたいと思います。

島小委員長 次に、植田至紀君。

植田小委員 社会民主党・市民連合の植田至紀と申します。
 きょうは、伊藤先生におかれましては忙しいところ貴重な、また刺激的なお話を伺う機会をいただきまして、敬意と感謝を表したいと思います。時間が限られておりますので、ただ、やはり先生のおっしゃった御趣旨を正確に理解する意味で、幾つか言葉の定義等についてお伺いして、その上で時間がある範囲で若干質問させていただければと思うんです。

 きょうお話しいただいたところすべてを網羅して聞くことはちょっと困難なんですが、特にこの権利の限界というところで、レジュメでいいますと三枚目の冒頭に当たる部分ですね、ここで、私自身は恐らく先生と権利というもののとらえ方が違うだろうと思いますので、そのことはとりあえずここでは捨象して、先生のお立場というものを踏まえながらお伺いしたいわけです。

 まず、ここで共同体内存在としての制約ということが一つ出てきます。ここで、本当に初歩的なんですけれども、いかなる共同体を想定しているのか、どういう定義なのかということをお伺いしたいんです。例えば、共同体といいましても、いわゆる農村社会における自然村としての共同体から、一定の制度的枠組みを持った社会集団、この中には国家も含むだろうと思いますけれども、そうしたいわゆる広い意味で、一つの概念規定として共同体ということでとらえておられるのか。
 ここで権利の限界を問うに当たって、その辺の共同体というものの定義をある程度限定的にとらえられているのか、その点をまず確認させていただきたいと思うんです。

伊藤参考人 恐れ入ります。これは、私の言葉の書き方が、専門の法学者でございませんので、ちょっとまずかったかなとも思うんですが。
 要するに、人間は一人で生きているんじゃないと。社会内存在という言い方に変えてもいいと思うんですが、あえて定義にこだわるというよりも、人間はいろいろなところで、一人で生きているんじゃない、人間と人間のつながりの中で生きているんだ、そういうことです。当然その中で、そのシチュエーションから出てくる限界というものはあるだろうということです。
 ただ、他人との間合いの取り方というのは、ただ法律だけではないんですね。やはりその人その人の培われた人間観みたいなものが、その間合いの取り方というものを非常に微妙にしているということです。

植田小委員 としますと、その意味でおっしゃられますと、ここでの共同体内存在としての制約、もしくはここでおっしゃっておられる共同体の歴史、伝統、文化からくる制約、それぞれ権利というものが限界を持ち、また制約をされるというのは実はそんなに意外にとっぴな話ではなくて、ごく当然の話だろうと。むしろ権利というよりは、そこで生活する人間の意識なり、またそこでの考え方なり、それぞれの人間の暮らし自体がこうした社会の存在に規定づけられているというふうに考えていいということでしょうか。

伊藤参考人 そういうことでございます。言ってしまえば簡単なんですが、ただ、当然こういうことがもっと強調されなくてはならないと思うんです。
 ところが、これは憲法学の課題ではないと言われればそうなんですけれども、こういうことが強調されない。せいぜい他人の権利を害しないという制約があるんだ、内在的制約があるんだという言い方をしますが、では、その他人の迷惑とか他人の権利を害するということはだれが定義するんだ。私が勝手に定義して、あなたの権利を害していませんよというのと、相手を本当に共感の感情を持ってとらえて、そしてあなたを害してはいませんよというとらえ方とは、ちょっと違う。
 例えば、今若い子が、人の迷惑にならなければいいじゃんと言って自己主張しますね。あの人の迷惑という人の迷惑は、一体だれが定義しているんですか、あるいは、人の迷惑ということをどれぐらい深く考えているんですかという問題がありますね。そういうことは、実は人間の権利関係の中で、もちろんそれは法的な争議になってくればもっとクールにいかなくちゃいけませんが、それ以前の問題としては、もっと大切にされていい人間と人間の間合いの取り方だと思うのです。そういうものが、権利の限界というとちょっときついかもしれませんけれども、権利論としてもっと突っ込んで議論されてもいいのじゃないかなと私は思っていたものですから、あえてちょっとこういうことを出したということなんです。

植田小委員 かなり深いお話でしたけれども、私自身は、これからの人権論というものを語るときに、いわゆる人権という概念が、絶対的なものというよりは、少なくとも関係性の中での概念だろうと。ひょっとしたら、人権ということに対する考え方は恐らく違うと思うんですが、そこのとらえ方は共通する部分もあるんじゃないかなと思っているわけです。

 というのは、今おっしゃったように、要は、社会的存在が我々の人間生活を規定づけてしまう、それが実際の事実でございますから。これはちなみに、御承知のように、マルクスの「経済学批判」の序文に、社会的存在が意識を規定すると。恐らくそこの部分だけは先生も否定なさらないんだろうと思うわけでございますけれども、そこは我々前提として立つことができると思うわけです。

 ただし、といっても、社会といった場合、先ほど一番冒頭に私は伺いましたように、共同体といった場合、例えば本当に素朴な近代の若衆宿みたいなものも共同体でしょうし、また、憲法を持った国家も共同体でありますし、一定の制度的枠組み、規範を持った共同体によって、これは権利というよりは、人間生活が規定づけられているというのが歴史的事実だろうと思うんです。

 そこで、先生のきょうのお話で、私、時間がありませんから一点だけ疑問点を申し上げて終わりたいと思うんです。
 かつて、私も決してよく勉強した高校生ではなかったので、久しぶりに西洋のさまざまな人権思想、総括で勉強させていただいたわけですが、共同体の存在自体よりも、それぞれの存在形態、そしてまた性格、このことを批判的に検証することによって、改めてそこにおける基本的人権のありようというものを我々としては見据えていかなければならないんじゃないかと思うんです。
 その点、非常に失礼な言い方になると申しわけないんですが、西洋のいろいろな啓蒙思想なり人権思想なりというものをやや無批判におっしゃられたのじゃないかと。むしろ、その背景となる、まさに先生がおっしゃる、規定づけるところの共同体、この共同体のあり方、存在形態、それの検証をまずしないことにはやや単線的な議論になってしまうと思うんです。ですから、その点を最後にお伺いして終わりたいと思うんですが、先生はいかがでしょうか。

伊藤参考人 その御指摘は、ある意味で当たっていると思います。当たっているというのは、それをこれから私はやはり一つ一つやっていかにゃいかぬと思っているんです。そういう議論が余りにもないものですから。だから、今御指摘なされたそういう歴史論的、共同体論的アプローチというものをもっともっと詰めていくということは私は必要だと思うし、私自身もしなくちゃならぬと思っているんです。
 ただ、私が言いたいのは、その試みが余りにもない。外国にはあるんです。例えば、スコットランド啓蒙という話をしましたが、アダム・スミスとかデービッド・ヒュームとか、もっとさかのぼればその祖であるところのモンテスキュー、まさにそういう研究だったんです。それの日本版がないんですね。
 ただ、私は、方向性として、そういう考え方でもう一度権利論というものを確立してもいいんじゃないかということを、あえて非才を省みずここで訴えさせていただいている、そういう意味で受けとめていただきたいと思います。

植田小委員 では、まだ紙が来ていませんが、最後にもう一問だけ。
 恐らく、先生のお話に疑問を持たれた幾人かの委員の方はいらっしゃると思いますが、私も同様の疑問を持っているのは、国家が先にあって国民が後からついてくるという……(伊藤参考人「私はそのようなことは一度も言っていないんですよ」と呼ぶ)いや、違うんです。

島小委員長 それぞれ、委員長の許可を得て発言してください。
 植田君。

植田小委員 最後までまず話を聞いて。そのことで論争しようとしているわけじゃなくて、そういう疑問をきょうの先生の話で持たれた方はいらっしゃるかもしれませんねということを一つ踏まえた上で、ただ、先ほどからの御議論を伺っていると、この三枚目の公共の福祉のところで、「「平和で秩序ある国家」あってこその権利保障」というのも、これも一方通行ではなくて、一応相互乗り入れしているような考え方に立っておられるなというふうに私は理解しましたということなんですよね。それを前提にして最後に一つお答えしてほしいんです。

島小委員長 質疑時間が終了しております。

植田小委員 済みません。
 それで、ただ、「平和で秩序ある国家」というものを素直に受けとめたときに、国民に平等原則が貫かれているということ、例えば、すべての構成員が社会的、政治的に、実質的に平等であるということが当然前提だということは肯定なさいますでしょうか、否定なさいますでしょうか。その点だけお伺いして、終わります。

伊藤参考人 一言でちょっと答えられないんですが、実質的平等というのは一体何なのか。それこそ私、定義をしていただかないと、いいかげんなことは答えられないなという感じがするんです。実質的平等というのは、追求していったら大変な問題になっていく。私は平等を否定しているんじゃないんですけれども、実質的平等ということになると、一体その基準は何なんだという話になりますね。これは大問題だと思いますよ。

植田小委員 終わります。

島小委員長 ありがとうございました。
 次に、井上喜一君。

井上(喜)小委員 保守党の井上喜一でございます。きょうは、参考人、本当に御苦労さんでございます。
 十分という限られた時間でありますので、私は、まずお聞きをしたいことを三点言いますので、時間の範囲内で所見をいただきたいと思うんです。

 私は、お話を伺っておりまして、イギリスなんかが代表例でありますけれども、共同体の中で生まれてきたルール、ここまでは絶対できる、主張できる、あるいはここは少し受忍せぬといかぬとかそういうようなこと、あるいは、このペーパーでは、歴史だとか伝統、文化からくる制約とありますけれども、そういうもろもろの中から生まれてきた基本的なルール、これが憲法であり、基本法だと思うのでありますが、日本の場合は、憲法は、日本の歴史を踏まえて、日本という共同体の中から出てきた部分もあるとは思うのだけれども、どちらかといいますと、与えられたもの、あるいは外に触発されて書かれたものだと思うんですよ。だから、法の意識というのがどうもイギリスなんかと日本と違う。

 イギリスなんかの場合は成文法じゃないわけでありまして、しかも、なおかつ法の支配というのもありますから、かなりきちっとしたものがあるけれども、日本の場合は、結局、法とか権利といったって、書かれているから権利があるとか、書かれていないから権利がない、そういうことになりがちなので、法について、私は、どうもイギリスなんかの場合と日本人の場合の違いがあるんじゃないか、これについてお伺いしたい。

 第二点は、英語で言えば、権利はライトと言っていますね。日本は権利と言うんです。これは、私はうまく訳したと思うんですが、ライトというのはやはり正義であり力なんです。だけれども、日本の権利の権というのは仮のという意味なんです、日本語で言えば。権力というのは絶対的なものじゃない、仮の力なんです。権利というのは絶対的なものじゃないんです、仮の利益なんですよ。

 ということで、私は、この日本の権利観といいますか、法律を見る意識というのは非常に相対的なそれがあると思うんです。もちろん、当事者になりますとうわっと言いますよ。言うけれども、当事者を離れた第三者の権利観というのは意外と相対的なものじゃないかと私は思うんです。それに比べて、西洋の権利というのはもう少しきちっとしたものじゃないかと思うので、ある意味では、立法とか、あるいは法の執行、司法の点で、日本の場合は大変柔軟性があるんじゃないかなというような感じが実はしているんですが、この点についての御意見です。

 三点目は、国防の義務とか家族の尊重を入れたらいい、私もそれはいいと思うのでありますが、どういう規定で入れるのか。もうちょっと具体的に、単に事項だけじゃない、どういう文章にするのか、その辺をお教えいただきたいと思います。
 以上です。

伊藤参考人 要するに、日本の場合、権利というものは与えられたものであって、であるがゆえに、少しその考え方も、深いところまで考えなかったんじゃないかというような御指摘だと思うんですが、まさにそうでございまして、私は、憲法学者の方々がなぜこのことをもっと問題にされないのかなと思うんです。

 憲法十一条は、基本的人権は、永久の権利として、現在及び将来の国民に与えられると書いてあるんです。与えられると言うけれども、一体だれが与えてくれているんですか、日本に。占領軍が与えてくれたんですかと言いたくもなるんですね。与えられるって、これはだれが与えてくれたんですか。宮沢俊義さんなんかは人間性によって与えられたんだと言うけれども、ちょっとそれは無理でしょう、何か言葉としてもおかしいというふうに思うんです。一体だれが与えたのか。国家が与えたと言うと先ほどからいろいろ問題が起こってくるけれども、国家が与えたわけでももちろんない。この与えられるというのは一体だれが与えたんだ、ここにそもそも権利観の混乱があると思うんです。

 それから九十七条は、今度は、信託されたものであると。信託銀行じゃないけれども、権利は、私らは、持っていてもいつか返さなならぬものですね、信託されたということは。これは、一体その相手はだれなんですかという話になるんです。
 こう言うとちょっと反発されるかもしれませんが、私は、この憲法を書いた占領軍の将校さんたちの頭の中に、日本には権利がないんだ、その権利なき日本人に基本的人権というものを与えてやろう、やはりこういう発想があったんだと思うんですね。それが期せずしてこういう言葉になった。

 だから、要するに、その背後には、日本には権利はなかったんだ、また日本人には権利観なんてないんだ、こういうところから出発しているんだと思うんです。そういう憲法であったがゆえに、例えば自由獲得の努力の成果ということは西洋人のことであって日本人のことじゃない、そういう解説が出てくるわけですね。これはぜひとも改めるべきである。

 例えばある西洋の法制史の先生が、契約社会をつくり上げるということが権利が確定していく大前提にあるんだけれども、その契約社会がどうしてつくられるかというと、商業の発達。それから、封建制というものは契約社会で、実は分権的で、そういう歴史をたどってきた国は、例えばイギリスは封建制というのがありましたね、それから商業が盛んでした、そういう中に権利という観念がより確立した。ところが、フランスなんかはそういうものが弱かったがゆえに、イデオロギーとしての権利は確立したけれども、実体としての権利は確立していなかった、フランス革命は失敗に終わった。そういうことを言っている法制史の学者はいるんです。

 それからいくと、日本は、例えば江戸時代の江戸の町人の生活というものを見ても結構自由で、そして法というものはあったんですね。確かに、明治以後日本には、それは失敗もあったと思いますけれども、その中で培われてきた法感覚、そのもとでの権利観というのは、僕はゼロだとは絶対に思わないんです。それを、人類の多年にわたる自由獲得の努力の中にぜひ入れてもらいたい。

 それは幾多の過去の試練に耐えて今日あるんだ。こうなると、我々日本人として、もっと前向きに、自分の歴史を踏まえながら自分の権利というものを考えていく態度が生まれてくるんじゃないかというふうに思っていまして、そういう問題をちょっと指摘したいと思います。

 ですから、権利観というのは、そういう歴史の中でとらえていけば当然相対的なもので、何か特定の哲学的原理があってそこから演繹的に全部出てくるんだという絶対的な権利観、あるいは、ある憲法学者に言わせると、今、日本国憲法の権利の規定というのは実体的価値の序列なんだ、こういう言い方をするんですけれども、私は、権利は実体的価値の問題ではなくて、やはり約束事だと思うんですよ。ただ、大切な約束事、基本的な約束事だと思うんです。そういうとらえ方をした方が、余り熱くならずに問題を解決していくことができるんじゃないかというふうに私は思っています。

 それから、家族尊重というのはどういう規定になるかということですが、実は私、そういう質問があろうかと思って資料をつくってきたんですが、各国の憲法は結構家族のことを書いていまして、例えばドイツは、「婚姻及び家族は、国家秩序の特別の保護を受ける。」というような書き方をしています。それから、世界人権宣言は、家族は人間社会の基本単位であるという言い方をしています。言葉の書き方は例はたくさんありますので、そういうものを受けてやったらいいし、実は日本国憲法の第二十四条のベアテ・シロタさんが書いた原案には、家族生活は尊重されるという規定があったんですね。ですから、そういう問題でもあると私は思っております。

井上(喜)小委員 どうもありがとうございました。

島小委員長 次に、石破茂君。

石破小委員 きょうはありがとうございました。
 私は、先生のお説は九九%ぐらい賛成なので、なぜ議論をしなきゃいかぬかなというふうにお思いかもしれませんが、お許しをいただいて、幾つか確認をさせていただきたいと思います。

 自然権という言葉は実に怪しげな言葉で、こういう言い方はいかぬのかもしれませんが、文明も何にもない未開の地があって、そこに人々が住んでいたとして、そこに権利はあるかというと多分ないんですよね。そうすると、自然権という言葉を振り回すのは、議論としてはえらくおかしいんじゃないかと思うんですが、ただ、私どもの法律の議論の中でも、例えばPKOが外国に出てどういうときに武器が使えるかといいますと、自己保存の自然権的な権利として武器が使用できると。自己保存のための自然権的な権利の発動としての武器の使用ができる、こういう言い方をしているんですね。変な話だと思うんですが、余りに議論が錯綜しますので、私も、最後は、どういうときに武器が使えますかと言われますと、正当防衛、緊急避難、自己保存、自然権なんて、そういうおまじないみたいなものを唱えざるを得ない。それで今までずっと来たわけですよ。

 ですけれども、私、ここ、自然権という言葉を入れるんじゃなくて、もっとはっきり言っちゃうと人間の本能みたいなものじゃないの、本質は人間の本能なんだろう、私はこういうふうに思っているのです。それを自然権という言葉を振り回すことによって、あたかも神聖不可侵の権利であるような物事の考え方というのは往々にして間違いを生じやすいだろうというふうに思っておりますが、一点、御見解を承りたいと思います。

 それから二点目は、有事法制の議論をしていますと、例えば業務従事命令、安全なところ、二項地域において、自衛隊が活動していない地域、後方支援地域みたいなところで、例えば輸送であるとか医療であるとか建築であるとか、こういうものを運んでくださいよ、こういうものを建ててくださいよ、こういう人たちをお医者さん、診てあげてくださいよという従事命令を都道府県知事がかけるわけですね。それに従わなくても罰則がない、こういうお話になっているのです。それも自発的なものに期待するんだから罰則はないんだよというお話なんですね。

 ところが、保管命令に反すると罰則がかかる。これの整合ある議論がどうしてもできないんですね。それは恐らく、推測するに、従事命令に反した者には罰則だ、こういうふうになりますと世論の反発を受けるに違いないということのはずなのですが、二項地域というのは安全な地域なんですよね、自衛隊が活動していないところですから。そこで輸送とか医療とかそういうものに従事してください、嫌だ、おれはやらない、それによってより多くの犠牲が出るということはあり得るわけであって、自発的なものに確かに私も期待をしたいが、しかし、その行政目的が達せられないということが一番困るわけで、そうであればこれは罰則をかけないとどうもぐあいが悪いんじゃないか。

 そうしますと、また国家によってどうだらこうだらみたいな話になるんですが、先生のお説の中で、私は本当にそうだなと思いますのは、国民の権利を守ってくれるのは、攻めてくる外国は絶対に守ってくれない。某国が守ってくれるとは私は思っていない。守ってくれるのは我々がつくった日本国政府であって、その日本国が危殆に瀕したときに、一日も早くもとの状態に復するために、きちんとした法的な手続のもとに権利が制限をされるというのは、むしろ我々が権利を享受するためにこそ必要なものではないかというふうに思っているわけであります。そのことについて御見解があれば承りたいと思います。

 それから、最後に、徴兵制についてですが、徴兵制をとるかとらないかはその国の政策判断だと私は思っています。フランスが徴兵制をやめました。私は、結構あれは驚きを持って観じまして、去年フランスに行ったときも、ことしフランスに行ったときも、どうしてということは随分聞いたのですが、結局のところは、徴兵制にしているとコストがかかって仕方がない、非常にコストがかかる。もう一つは、徴兵で集めた兵隊さんというのは、玉石混交というのか何というのか、とにかくプロ集団じゃないので、フランスも財政が厳しい、そうするとプロ集団でやった方が役に立つ。

 ただ、フランスとしては、結局、近代市民社会を支えているのは国民皆兵という思想と、それから財政民主主義というものだと思っているのですよ。我々の民主主義国家というのは、国民みんなが守るんだということと、王様が税金を集めるのではなくて、政府が集め、それをどう使うかということは議会が決める、これが柱だったと私は思っているのですが、その徴兵制をフランスがやめるということもかなりショックなことではあった。でも、それは政策選択なのだと思うのです。

 それで、日本の国において、徴兵制は憲法違反だと言ってはばからない人がいますが、そんな議論は世界じゅうどこにもないのだろうと私は思っています。徴兵制をとるとらないは別として、徴兵制は憲法違反、なぜですかと聞くと、意に反した奴隷的苦役だからだと。国を守ることが意に反した奴隷的な苦役だというような国は、私は、国家の名に値をしないのだろうと思っています。少なくとも、日本以外のどの国に行っても、社会体制がどんなに違ったとしても、そのようなことは、あなた、本当に何を考えているんですか、そういう反応になるのだろうと思っています。徴兵制が憲法違反であるということには、私は、意に反した奴隷的な苦役だとは思いませんので、そのような議論にはどうしても賛成しかねるというふうに思っておりますが、御見解を承れれば幸いです。

島小委員長 伊藤参考人、恐れ入りますが、石破小委員の持ち時間があと三分でございますので、よろしくお願いを申し上げます。

伊藤参考人 まず、自然権というものはどうだということですが、ロックは、これはやはりキリスト教神学を前提に出発しているんですね。ですから、自然状態というのは神様の摂理が通っている世界なんですね。だけれども、そんなものから出発して自然権なんて導き出されたのでは、少なくとも日本ではそういう議論は通用しない。それから、そうしていながら、じゃ神に対する義務ということをロックは説いているかというと、説いていないのですね。そこら辺がちょっとロックの議論も徹底性を欠いているんですね。

 そういう問題があって、おっしゃるように、権利というものの原点にあるのは、ある意味では本能だろうと思うんです。よき本能もあればあしき本能もあるだろうと。そこを腑分けして、これだけは欠かせてはならないということで、ある意味で聖域にしましょうというのが歴史の中でつくられていった権利の観念だ、そういうふうに把握した方がいいと私は思っている。ですから、当然、そういうものでありますから、相対的であって限界もあるということです。

 それから二番目の、有事の場合における権利の制限でございますけれども、やはり、まず何といっても、日本の今の公共の福祉の解釈の中に、国家の安全という要素が入っていないんじゃないかと思うんです。
 私は、今の憲法の規定でも、公共の福祉の中に国家の安全という観念が入っているんだと解釈すれば、かなりの有事立法をつくれると思うんです。ところが、これは私は世界標準だと思っているんですけれども、どうもないような議論をしているところに、どうしてもそこら辺のつじつまの合わない有事法制が出てきているんじゃないのかなという感じがします、ちょっと素人的な考え方ですが。

 それから、徴兵制に関する考え方は、先生おっしゃるとおりで、あれはまさにフランス革命の精神なんですね。ですから、徴兵制を否定するということは、フランス革命の精神を否定したということなんです。ですから、フランス人にとって非常にショックが大きかったとも思うんですけれども、逆に言うと、現代の状況から来る計算というものに合わないということが言えるわけであって。

 ですから、国防の義務と兵役の義務は違うので、私があくまでも主張しているのは国防の義務ですよというのは、そういうときに、ただ主体的な、自発的な協力ということだけでは解けない大変な問題が起こる。もちろん、そんな問題は起きないのが一番です。けれども、起きた場合は、やはり、ただ公共の福祉だけでも済まないだろう、もっと積極的に協力してもらわなくてはならぬ場合もあるだろう。そういう意味では、公共の福祉という考え方の中に国家の安全ということを入れると同時に、やはり国民の義務として、国防の義務というものはあってしかるべきだと私は考えている。

 そう言うと、とにかくこれは危険なことを言ったと鬼の首とったみたいに言われるんですけれども、でも、そうじゃないんじゃないですか、もうそういう議論はやめて、もっと現実を見詰めようじゃありませんかと私はあえて言いたいということでございます。

石破小委員 ありがとうございました。終わります。

島小委員長 次に、小林憲司君。

小林(憲)小委員 伊藤先生、大変長時間にわたり御苦労さまでございます。
 時間も十分、また差し迫っておりますので、私も大変先生の御意見には賛同させていただいております。総括して、先生の、日本の民主主義憲法というものは、敗戦後、アメリカによって民主主義というものを教えられ、そしてまた憲法というものを与えられ、その中の基本的人権というものが生まれてきた、それはアメリカの植民地建設にまでさかのぼりまして、個人の自由、良心の自由を求めてのイギリスからの国外脱出という極めて宗教的な、キリスト教の思想がその淵源であるというのが先生の論述だったというふうに理解しております。

 それで、私は思うんです。また、先生も先ほど来御質問の中で何度か触れられている点だと思うんですが、我々日本人が現在共有している基本的人権の観念は、教えられたとおりのものを、学者さんや皆さんから言われたとおり頭の中では理解しているんですが、実際は、私は理解ができない民族的な土壌があるのではないかと思うんです。

 というのは、昨今よく聞く原理主義というものがあるんですけれども、日本人というのは、何か私が思うには、日本人であるというのはまずどういうことかといったら、見た目がまず日本人じゃなきゃいけないということがあると思うんですね。

 昨今の大使館の事件でも、もしあれが日本人の人が助けてといって入ってきたならば、どんなことがあったって何だ何だといって守っただろう。それが、他国の方が来て、どうしたんだろうなと。それに対しての危機というか警戒心というか、何があったのかという思いが余りにも少な過ぎる。ですから、ルールとしては頭の中であっても、ああいう行動に出てしまう。

 また、日本人というのは、今日本人同士の中でも、ホモジーニアスといいますか、見た目が一緒、同一民族である。中でも、弱者に対しては非常に排他的な歴史を持っておりまして、今でも、世界の出生率とハンディキャップで生まれてくる子供たちの生存率、これは日本は余り高くないというふうに聞いております。これは何が起こっているかということは、ここでは、確かな証拠はないですし、いろいろなことがあるのではないかと言われている、そういうこともあります。

 そしてまた、日本人というのは、死にますと名前まで変えられてしまう。これは仏教から来ているんです。そしてまた、葬式が終わって帰ってきますと、皆さん、ハンカチと一緒に塩まで入っていて、不浄なものになってしまって塩をぶつけられて、名前も違うし、不浄だ、我々は今生きている人間が大事なんだ、そういう非常に排他的なものがあるんじゃないかな、こう思うんですね。

 そんな中で、人権というものを考えたときに、私は、一点だけなのでちょっとお話しさせていただきますが、仏教ですと、仏陀が初めて門から出たとき、四つの門から出たというお話があります。まず一番目が生、生まれる、そして病、病気、そして老いていって、そして最後が死である、これが自然である、だからそれで出家したんだという話があるわけですけれども。もうしようがないよ、生まれたときから死んでいくんだ、これが四つの門で、四つの苦で四苦、それに伴うので、心があって四苦八苦というそうですけれども、もうどうしようもないよ、悲しみの中から始まっている、何かそういうものがあるんじゃないかと思うんですね。その中で、権利、自分の権利、生きていくという権利は生まれたときにもらう、しかし、生まれたらもう死んでいくんだ、もうしようがないよと。

 最近、都会人といいますかシビライズされていますと、仕方がないという言葉が余り聞かれないそうです。何でも説明ができる、アカウンタビリティーがある、物や道具にはすべて、マイクはしゃべるもの、コップは水を飲むもの、全部説明ができる。
 しかし、仕方がないよという言葉がなかなか言えなくなってきている日本人の中で今危機が起こったとき、非日常が起こったときの管理をする、非日常なことが起こっているんですから管理はできないんですね。だから、仕方がないよなんです。その中で、どうやって生きていくか、生きている者たちがどうやって、日本の民族の魂として、民族の人権として、自分たちの国、そして自分たちの民族を守っていくか。これは、守るためには、すべては、まずは仕方がないよ、これがまずはあるのではないかなというふうに私は思うんです。

 ですから、この日本人の感覚、日本民族の感覚というものと今の西洋から来ている人権というもの、この土壌がまず違うというところで、危機に対する感覚も変わってきますし、それから、やはり自分たちで何とかしなきゃいけないという意識はありながらも、それを出せないような何かがあるのかな、それがもう今ここに至ってはどうしようもないものなのかどうなのか、この一点だけ。
 私は、大体、今世界が臨戦態勢であるという意識が日本の国だけなぜかないような気がします。これは、世界の情勢を見れば今臨戦態勢です。新しい枠組みに向かって、食料の確保に向かって、そしてまたいろいろなエネルギーの確保に向かって、各国がさらに今臨戦態勢に入っている中で、日本だけがその態勢に入れていないという問題もあります。

 ですから、その辺も含めまして、日本人の持っている土壌といいますか宗教観といいますか、そして人権とルールというものに対しての先生の御意見をいただきたいと思います。よろしくお願いします。
 以上です。

伊藤参考人 私は、日本には日本の権利の把握の仕方があるさと言ったように受け取られているかもしれませんが、必ずしもそう安易に言ったつもりはないんです。私は、権利というものはある意味で普遍的なものでもあると思うんですよ。

 ただ、それは自然権という考え方だけで理解されるものじゃないですよと。大きく分けても、権利の理解の仕方には歴史論的なアプローチと自然権論的なアプローチの二つがあって、歴史論的なアプローチというものが余りにも無視されていますよ。私は、どちらかというと歴史論的なアプローチを大切にして、それを日本の土壌の中で理解していく、そういう権利の理解の仕方、それから権利の規定の仕方というものをこれから工夫していってもいいんじゃないでしょうかということを言ったんですね。

 だから、日本には日本的な権利があって、よその権利論とは全く別だよというとちょっと私違うので、私はやはり権利というものを大切だと思っているんです。大切だと思うからこそ、まさにその権利の保障というのはいかにして成り立つのか、自然権論では成り立たないんですと私は言っているんです。そこのところを一つ強調したいと思います。
 それから、危機に対する感覚、これも私はどういうふうにお答えしていいかわかりませんが、ただ、危機が起こったときに、仕方がないさというわけにいかないんですね。危機管理の鉄則というのは、まず混沌とした状況が生まれるわけです。そこで、その混沌に対して秩序を与えること、これが危機管理の鉄則なんですね。秩序を与えるということはどういうことかというと、やるべきこと、国家構成員あるいは国家がやるべきことに優先順位をつけるということなんです。まず、何を確保するんだと。

 これは残念ながら、こう言うとまた御批判を受けるかもしれませんが、国家が危機状況に陥って混沌となったときに、そこに秩序を回復していく、そのためには優先順位が必要で、まずどこから手をつけるんだということになると、政府の存続からいくしかないんです。政府の存続から手をつけなければ、個人個人の権利というものを保障できないんだと。もちろん、その場その場で個人を大切にすることはいいですよ。そういう優先順位というものを考えた危機管理、とらえ方というのがあると思うんです。

 私は、だからといって、では、政府の存続は優先順位第一ですよと言ったからといって、国民の権利はどうなってもいいと言っているんじゃないんです。そしてまた、その政府の権利によって国民の権利を踏みにじろと言っているわけでもないんです。国民の権利を確保するためには、優先順位としては政府の存続ということをとらざるを得ないということがあるんだと。それは、何も私だけじゃなくて、世界の危機管理の手順というのはみんなそうなっているんです。アメリカ憲法ですと、大統領の継承順位から始まって、いかに政府中枢を生き延びさせるかということをやるわけです。

 だから、そういう感覚からいくと、今の公共の福祉の理解の仕方とか、あるいは国防の義務ということを全く考えない理解の仕方では、私は、国家が保てないと言うとまた誤解されますので、あえて国民の権利が保障されませんよということを言いたいわけでございます。

小林(憲)小委員 ありがとうございました。

島小委員長 葉梨信行君。

葉梨小委員 伊藤参考人、きょうは、大変内容のあるお話をありがとうございました。同僚議員の質問で大分私が聞きたいことも出てきておりますが、基本的人権あるいは基本権あるいは人権という考え方が西洋の啓蒙思想の中で出てきて、そして、それが地域社会、共同社会の中ではぐくまれてきている、こういうお話を伺いまして、私は、人権、権利に対応する言葉としての義務という言葉が生き生きとしてきた思いがしております。
 そして、権利と義務という観念が、この今の憲法で十分に表現されていないという感じがしておりまして、そういう意味では、義務をちゃんと必要なところに記載をしていかなければいけないと思っているわけでございます。そういう意味で、先生、現行憲法の中で、どんなところにきちっとした規定をしていったらいいか、お考えを伺わせていただきたいと思います。

伊藤参考人 権利と義務という問題は、私は本当に大切な問題だと思うんですが、私はただ、憲法に義務をずらずら並べればいいという問題でもないんじゃないかなと。ある意味で義務というのは常識でもありますので、むしろ憲法教育というところで、その憲法を支えているものときょう私は盛んに強調しましたが、その精神を強調していけば、おのずと実現していく。

 私は、どうしても憲法に書かなくてはならない義務としては、やはり国防の義務だろうと思うんです。私は、この一つが入っているだけで、もうほかの細かい義務は書かなくても、これさえ入っていれば、これはある意味で、家族に例えてみれば、息子に対して、おまえ、何をやってもいいよ、ただ、この家がもしものときは、おまえ、帰ってきてこの家を支えてくれよ、あとは自由だと言うのと同じで、あれしてはいけない、これしてはいけない、この協力をしろ、これだけ仕送りしろとかと言って子供を縛りつけるのは、私は余り賛成ではない、自由でいい。それが自由な国家ということだと思うんです。

 ただ、この国が怪しくなったら、駆けつけてきて、おまえ、支えてくれよ、これでいいと思うんです。これがあれば、この息子さんは非常にまた立派な青年になると思うんです。そういう考え方でいくならば、国防の義務を規定する。まだ遵法の義務とかいろいろあるんですけれども、私はいいんじゃなかろうかというふうに思うんです。

 というのは、例えば中華人民共和国の憲法がありまして、ちょっと見ますと、五十二条に、国家の統一と各民族の団結を維持する義務というのがあります。それから第五十三条、憲法、法律、労働規律の遵守、国家機密の保持、保守、公共財産、公序公徳の尊重義務。それから第五十四条、祖国の安全、栄誉及び利益を擁護する義務。それから第五十五条、兵役に服する義務。第五十六条、納税の義務。義務、義務、義務と来るんですね。私は、ちょっとこういう憲法のもとでは生きたくないなというふうに思うんです。

 ですから、そういう書き方はする必要はないと私は思っておりまして、ただ、国防の義務を除くと、その家に万一のことが起こっても息子が帰ってこないというようなことになるわけで、それは家族の崩壊になるわけでありまして、それはまずいんじゃないかなということでございます。

葉梨小委員 ありがとうございました。
 同僚議員のいろいろな御主張がございますが、憲法に人権についての規定がいろいろ書かれております。ある方は、人権の規定が現実の政治の中で生かされていない、だから、人権についていろいろ改正、改定をする必要はないじゃないか、こういう有力な御意見がございますけれども、その点について、先生、どう考えられますか。

伊藤参考人 私はあえて人権という言葉を使わないで、権利という言葉で統一させていただいておるんですが、憲法に規定された、保障された権利が生かされていないという議論があることは私も承知しております。確かに、そういえばそういうこともあるのかもしれませんが、ただ、権利が生かされていないと言うときの権利は、国家が自分の生活に踏み込んできて困るということじゃなくて、国家に対する請求権という意味で権利が生かされていない、そういうとらえ方、そういう主張が多いんだと思うんですね。

 要するに、国家によって我々はこれだけの権利を与えられているんだという考え方は、実はこれは、天賦の人権じゃなくて国賦の人権論なんです。国賦というのは国ということです。いつから天賦の人権論が国賦の人権論になっちゃったんだとちょっと言いたい部分もあるんです。余り国にああせい、こうせいと言うと、これは必然的に国が大きくなるわけで、国も口出しをしてくるわけです。
 今でも行政府あるいは政府の権限が多過ぎるんじゃないかという議論があるわけでございまして、そこにまだ我々の請求する権利が残っているんだということでああだ、こうだと言うと、では、その原資である税金はだれが出すんですかという議論と必ずぶつかってくるわけでございます。

 私は、我々の聖域、最低限これだけは守られている聖域にいわゆる政府が踏み込んできて、そして、その権利が侵されているという範囲で、それに対して異議申し立てをするという意味での権利がまだ生かされていないという主張は、時と場合によっては、これは大いに考えるべき問題であろうと思いますが、政府にああせい、こうせい、これもやるべきだ、あれもやるべきだという請求権という形で、国家に対して何でもかんでも押しつけていくというのは、実は、権利論を展開しているようであって、それは天賦の人権論からいつの間にか国賦の人権論になってしまっていて、ある意味で危険なんじゃありませんかということを言いたいわけで、やはり自助自立というのが国家の基本であると私は思っております。

葉梨小委員 ありがとうございます。
 最後に、ちょっとこれは感想を伺いたいんです。
 さっき家族のことをきっちり書いたらいいだろうというお話を承りました。これは、何回か前のこの委員会でも、私も発言をしたことがございます。それで関係があるかないか、御感想を伺いたいんですが、核家族化とかあるいは家庭崩壊とか、いろいろ大変憂慮すべき状況が出ておりますが、戦後、均分相続、これは民法でございますかが施行されました。あれと今の崩壊と何か関係があるのかないのか、そこら辺についての感想を伺わせていただきたいと思います。

伊藤参考人 相続問題というのは、これは確かに微妙な問題でございまして、相続制度というのは何かというと、これはやはり最低限家族という観念が入った制度だと思うんです。そうでなかったら、どう財産を処分しようが自由なんですね。相続という形で制度化されたということは、それが父親の財産であるならば、妻、子供、そういうところにきちんと移されるようにという最低限の考え方があるわけであって、これはやはり家というものの存在を前提にした考え方だと思うんです。

 ですから、相続全く自由というのは、私は、これは家観念を否定する考え方だと思います。ですから、私は、相続制度というものは十分慎重に考えた方がいいと思います。

 それから、純粋経済問題として、例えば田んぼを分けてしまう、田分けというんだそうですけれども、こういう問題は確かに農村ではあるらしくて、今では相続放棄とかなんとかで処理しているらしいですけれども、家族の基本的なものは守っていくんだという考え方は、これはやはり最低限守るべきものであるというふうに私は思うんです。

 その中には、例えば祭祀財産という概念が民法の中にありますが、この世において祭祀財産とは何だ、こんな封建的なのは捨てろといわゆる若い民法学者はおっしゃるわけですが、人間とは一体何だ、家族とは一体何だというときに、やはり自分の祖先を弔うという祭祀機能というのはあるんですね。祭祀機能を抜きにして家族というのは成り立たないんです。という意味では、その祭祀に伴う、例えば仏壇とか仏間とか、そういう問題がある。そういう祭祀財産というものを認めた上での相続制度というのができているんですね。

 私は、こういうものをいわゆる合理主義だけで全部洗い流していいのかなと。これは、こういうことを主張するとイデオロギー問題になるんですけれども、ただ、ちょっと皆さん、冷静に胸に手を当てて考えてもらいたい。自分の祖先を大切にするという日本人が成り立たせてきた制度というものを、もう少し愛情を持って、しかし、もちろん弊害が出てはいけないから、その弊害を除去しつつ考える、もっと成熟した考え方があるんじゃないのかなというようなことを思っております。
 ちゃんとした答えになったかどうかわかりませんが。

葉梨小委員 ありがとうございました。終わります。

島小委員長 これにて参考人に対する質疑は終了いたしました。
 この際、一言ごあいさつを申し上げます。
 伊藤参考人におかれましては、貴重な御意見をお述べいただき、本当にありがとうございました。ある委員の言葉をかりますと、非常に刺激的なという御意見もございます。十分間の持ち時間が本当に短く感じた意見をいただきました。小委員会を代表いたしまして、心から御礼を申し上げます。本当にどうもありがとうございました。(拍手)
    ―――――――――――――
島小委員長 これより、本日の参考人質疑を踏まえ、基本的人権の保障について、小委員間の自由討議を行いたいと存じます。
 一回の御発言は、五分以内におまとめいただくこととし、小委員長の指名に基づいて、所属会派及び氏名をあらかじめお述べいただいてからお願いをいたしたいと存じます。
 小委員の発言時間の経過につきましてのお知らせでございますが、終了時間一分前にブザーを、また終了時にもブザーを鳴らしてお知らせしたいと存じます。
 御発言を希望される方は、お手元にあるネームプレートをこのようにお立てください。御発言が終わりましたら、戻していただくようお願いいたします。
 それでは、ただいまから御発言を願いたいと存じます。

中野会長代理 質問の時間を持たせてもらえませんので、今から一言だけ発言したいと思います。
 先ほど、参考人の方と今野君のやりとりを聞いておって、大変興味深いものを感じました。
 私は、権利という言葉、または人権という言葉、その権の字の意味というのをもう一度ひもといて考え直してみると意味がよくわかるのではないかという気がいたしております。

 例えば、権利に対する言葉は実利だと言われます。また、権力に対する言葉が実力だと言われるわけですね。そうしてみますと、この権利の権の字がつくということは、権威という言葉もありますが、言うならば、実力よりも権力の方がより社会的、よって、自然権というよりもより社会的な意味を持っているものだろうというふうにはそこから感じられます。

 私流の皮肉を込めて言うと、実力のない人が総理大臣になると、権力だけは最大の権力を持つが、リーダーシップが発揮できないで国家的悲劇となる、こういうことではないかと。よって、実力と権力というのは本当は一致した方がいい。しかし、必ずしもそれが一致するとは限らぬというのがこの実際の政治の世界ではないか、こんな感じもいたします。

 そういう意味で、権力と実力を比較対照して考えてみると、この権の字の意味が、社会的な意味がよりわかりやすくなってくるのかなと。よって、憲法にはできるだけこの権利というのは具体的に明記していくということがやはり大切で、社会的な規範もしくは社会的な場所でつくる。そして、その権利とは対照的に、その権利をその人に保障するためには、国家もしくはその人以外の人たちが義務を負うことになるわけですから、この権利と義務というのは手のひらの裏と表みたいなものであります。そういう意味では、権利として表記するか義務として表記するかということが社会的な意味として重要なのではないかと思います。

 また、環境権という言葉が新しい権利として使われますが、これとても、本当は、環境権、新しい権利として考えるよりも、地球崩壊ということの危機感を持って考えれば、環境保持義務がむしろ今は問われているのではないか、こんな感じがいたします。
 そういう意味で、憲法を考えるときに、権利と義務の関係というのは、どちら側から書くにしろ、権の字がつく限りは、私は、やはり憲法などに、憲法に限りませんが、できるだけ明記をしていくことが大変重要な意味を持っているのではないかという感想を持ちました。

葉梨小委員 きょうは基本的人権の保障に関する調査小委員会でございますので、ちょうどいい機会で、ちょっと申し上げてみたいと思います。
 憲法第三章、国民の権利義務の第二十一条、集会、結社及び表現の自由と通信秘密の保護、「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。」こういう条項がございます。

 実は、昨年の秋でございますか、教科書の改訂の時期が参りまして、いろいろな新しい教科書が出ましたけれども、ある出版社から刊行される予定の歴史の教科書につきまして、それを採用しようとした地方の教育委員会の教育長さんとかあるいは教育委員長さんとか、あるいは首長さんでございましょうか、そういう方々のところに集中的に抗議の手紙が行き、電話が行った。そして、中には、とうとう教育委員長さんが辞任するとか、そんな騒ぎになりました。

 言論の自由が十九条にございます。「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。」と十九条にございます。そんなこともありまして、憲法に保障されて、日本の国は、自分の責任において何を主張しても何を言っても許されるという自由濶達な国柄に戦後なったと喜んでいるわけでございますけれども、昨年の秋以来の現象を見ておりますと、大変大きな、全体主義的なプレッシャーをかけるグループというか、グループがあるのか個人個人なのかは知りませんけれども、自由に物を言い、自由に考え、自由に出版するということが実質的に侵されている、こう言わざるを得ないと思うんです。

 私は、そういう意味で、二十一世紀の日本がこれから伸び伸びと堅実に発展していくためには、どうしてもこういう風潮を、国民の皆様の御理解を得て、お互いにこういうことをしちゃいかぬよという空気を広めていかなければ、自由社会が崩壊するんじゃないか、こういうおそれを抱いているわけでございます。
 ちょうどきょうは小委員会で、テーマがふさわしいということで、一言委員の皆様に申し上げてみたいと思った次第であります。

今野小委員 私は、きょう、この小委員会に出席をしまして、権利と国家、神、宗教について考えるとてもいい機会だったと思います。また、私は、それと同時に、言葉というものは大変難しいな、私は国会に来る前に、言葉を使って、それをなりわいとしていた者でありますが、改めて大変難しいものだと思いました。
 例えば、対になっているようでなっていない言葉というのがあります。

 ここは小委員会でありますが、そこに所属している私たち委員は、それでは小委員なのか。小委員会と小委員がいかにも対のようにして使われておりますが、私は、小委員会に所属している委員だと思っていたのですが、何か小市民と似たようなところがあるのでしょうか、これは対になっているようでなっていないものなんじゃないか。今野小委員と書いてあるのは実は間違いなんじゃないかと常々思っておりましたが、対になっているようで実は違うものというのがあるのであります。しかし、小委員の方はお集まりくださいと言われると、ああ、小委員だったと、何度も使われるとそう思い込んでしまう、言葉というのはそういう性質を持っている大変おもしろいものであると思いました。

 また、対になっているかいないかということであると、私は、国によって権利というのは付加されているものであるというのを少し言い直しまして、いただくものだという表現をしましたが、それは絶対に違うのだという、強い、抗議に近いお話をいただきました。いただくというのが否定されるのであるとすれば、それでは、付加に対する、対になっている言葉は何なんだろうなと。国が付加すると、国民はいただくのではないか。それでは、いただくというのが違うとすれば、付加したものはどこに行っちゃうんだろう、受け取るというのはどう表現したらいいんだろうと、戸惑いのようなものを感じました。
 それで、かなり人権については片側通行的思考のお話をきょうはいただいたのではないかと思いますが、宗教と国のかかわりについてもいろいろお話がありました。

 私は、前近代的単一社会というのは、宗教は確かにその社会環境と不可分なほど密接に関係していた時代だと思います。そういう時代では、政治権力、社会関係、慣習、古典的な儀式は、すべて内在的に宗教にくくられておりました。また、帝国主義的時代には、政治、経済、軍事的支配力を維持するための手段として、前時代的な、社会的な宗教的価値観と共存していた人々を支配下に置いていた時代というのがありました。

 近代国家の時代では、必ずしも、他の国家に対抗するために宗教が政治的、経済的、軍事的パワーの求心力となっているわけではないと私は思っているのですが、そこのところがどうも整理がつかないまま、きょうのこの小委員会の中で、小委員である私は戸惑いを持ったまま終わりそうでありまして、もっとここら辺ではっきりした意見の方のお話を、対になるような方のお話も伺いたいなと思いました。
 以上でございます。

植田小委員 小委員の植田至紀でございます。
 きょう初めてこの基本的人権にかかわる小委員会に参加させていただきまして、質疑をさせていただきました。
 若干感想を述べたいんですが、きょうの話というのは、極めてある種原理論的な話であったかと思います。私自身、そうした学問的な作業の積み重ね、これは非常に大切ですし、この憲法調査会でも積み重ねていかなければならないということは当然思っております。

 ただ、今、基本的人権が保障されているとする日本国憲法下において、現行憲法下において基本的人権について論じなければならないというのは、人権問題というのは、一つ一つは極めて具体的な事象である、人権が保障されていない、差別が存在する、そうした一つ一つの具体的な事象がこの日本社会において存在するから、この問題について議論しなければならないんだということを決して忘れてはならないと思います。

 それは、当然ながら、男女共同参画社会といいながら、女性の社会参加と男性の社会参加がでは平等かといったら、決してそうではない。また、在日外国人に対するさまざまな民族的差別、アイヌ民族への差別、部落差別、障害者やお年寄り、そうした問題等々、この日本社会において差別と人権侵害に係るさまざまな問題が具体的に存在している。また、そうしたマイノリティーだけではなく、私たち一人一人、個人がいろいろな局面で社会的不利益を受ける、そうした局面もたくさんあるわけです。そうしたものは常に具体的な事象である。だからこそ、その一つ一つの問題を解決していくための立法作業であるとか政策の実現というものが我々に課された責務なんだろうと改めて感じさせられているわけです。

 いわば、基本的人権というものは、機会の平等がきちんと保障されている社会あって初めて人権が確立された社会と言えるのではないかと私は思います。機会の平等というのは、少なくとも、みずからの努力と研さんの結果以外に、人と人との間に格差を生まない社会でありましょう。それが現在保障されているかどうか。

 生まれながらにみずからの運命が決まっている方が少なくともいらっしゃいます。そして、それが憲法によって保障されています。これはいわゆる天皇制にかかわる問題であります。憲法論議をするに当たっては、この問題を少なくともきちっと議論していく必要があろうかと思います。

 といいますのは、少なくとも、憲法を論議するということは、その正当性や不当性をいろいろな立場で論じるにとどまらず、今我々が将来においていかなる国、社会を構想するのか、そこから理想となる憲法体系というものをどう導出していくのかということにあるんではないかと思います。

 その意味で、事実上の立憲君主制の今の日本の政体が未来永劫続くことを前提として論じるということであるとするならば、これは憲法論議を実は放棄したに等しいと思います。ですから、例えば将来の日本の政体として、天皇制を廃止して共和制に移行するという議論があったとしても私はいいと思います。また、逆に復古的な考え方が当然この場で論じられてもいいかと思います。
 私ども故郷の出身の、非常に孤高の思想家でありました保田與重郎という人がいらっしゃいますが、祭政一致の暮らしこそ絶対平和の暮らしであるというふうに述べました。これはまさに、帝国憲法とか日本国憲法以前に、伝統を守るというのは、近代憲法そのものを放棄するんだ、日本の国が本当に祭政一致の絶対平和な暮らしを享受するのであれば、延喜式、祝詞式があれば十分だとおっしゃった方もいます。これも一つの日本像でありましょう。

 いずれにしても、こうした議論をしていく前提、そうした歴史的事実にかかわる認識を、日本人にとって、また日本にとって、天皇とは、天皇制とは何であったかということを歴史事実に即して検証していく、その中から、改めて二十一世紀の私たちの人権というものについて考える一つの出発点にすべきではないかというふうに私は考えております。その議論なくして、憲法論議というものは画竜点睛を欠くと言わざるを得ないだろうということを申し添えておきます。
 以上で終わります。

春名小委員 先ほどの葉梨先生のお話の中で、新しい歴史教科書の問題が出ましたので、一言だけ私の意見を言っておきます。
 私、抗議する自由もしっかり保障されないといけないと思うんですよ。それこそ二十一条が保障されていることですし、表現の自由、言論の自由ですので、そのことを葉梨先生のようなことでいきますと、国会に署名を託すとか、そういうことも、たくさん集まれば圧力になるからだめだみたいな話になってきますので、そこはよく考えていかなければならないと思うんですよ。

 もう一点は、なぜそういうことが起こったかということについて、歴史に偽りがあってはならない、子供たちに教える教科書の中身は真実を伝えなきゃいけないという大きな問題意識が私にはあります。その二点、お伝えしておきます。
 私は、きょうは、基本的人権の論議の中で、今一つの大きな問題になっております、憲法十三条で述べられている、国民の権利は公共の福祉に反しない限りで尊重されるという文言について、一言申し上げておきたいと思います。

 その解釈として、国家が公共の福祉と認めれば、国家による人権制限は当然だとする議論がなされております。その典型が、武力攻撃事態法、有事法制です。第三条の四項で、武力攻撃事態への対処の際には、日本国憲法が保障する自由と権利について、必要最小限、公正かつ適正な手続のもとでなら制限を加えることができると条文で示されています。政府は、この人権制限の憲法上の根拠として憲法十三条を挙げて、その説明の中で、内閣法制局長官は、現行憲法下でも公共の福祉の観点から災害対策基本法、国民生活安定緊急措置法で人権が制限されているではないかと述べております。この誤りについて三点、指摘をしておきたいと思います。

 第一に、公共の福祉の通説的見解なんですけれども、これは、人間の尊厳を最高の指導理念とする日本国憲法においては、個人に優先する全体の利益あるいは価値というものは存在しないということであります。個人の人権に対抗する価値が認められるのは、多数または少数の他人の人権だけでありまして、この人権相互間に生じる矛盾、衝突の調整を図るための実質的な公平の原理が公共の福祉ということであるということが通説であります。

 政府も、現実の立法は別としまして、この立場に立っておりまして、国連人権委員会への市民的及び政治的権利に関する国際規約第四十条一(b)に基づく報告の中でこう言っております。日本国憲法における公共の福祉の概念について、主として、基本的人権相互間の調整を図る内在的な制約理論により一定の制限に服することがある旨を示すものである、こういうふうに述べているわけです。政府自身がそう言っているわけです。

 つまり、国家が都合のよい基準をつくって人権を制限するということはできないというのが見解なわけですね。人権相互の衝突ということとは全く関係ない武力事態への対処を、公共の福祉として人権制限の根拠としていくというところには道理がないというのが第一点。

 第二点は、災害対策基本法とか国民生活安定緊急措置法で言う人権制限の規定は、経済的、社会的弱者の保護という政策的制約のことを示唆していまして、憲法二十九条の経済的自由権に根拠を持つもの、こういうふうに政府自身も説明してきたものです。つまり、憲法十三条を根拠にしたものではありません。
 最後に、ましてや日本国憲法は、武力行使そのものを禁止しております。戦力を保持することを否定しております。平和外交と平和共存によって自国の安全を守るということを宣言しています。ですから、こういう徹底した平和主義を持っている日本国憲法のもとで軍事的公共性というのが成り立つ根拠がないわけです。そういう三点、申し上げておきます。

 憲法調査会としましては、こうした現実に起こっている憲法違反濃厚の実態をきちんと調査するということが我々に課せられている責務であろうということを考えております。
 以上です。

葉梨小委員 春名先生の御意見にちょっと私、申し上げておきますが、言論の自由があるし表現の自由があるから意見を表明するのはいいんですが、それは責任を持って対応していかなきゃいけない。名前をちゃんと書き、住所を書いて、そして手紙をもらった人が、いや、これはこういうことですよと意見の交換ができるような状況であれば、それはたくさん手紙が来たって構わないんです。それが、名前も住所も書かないで、とにかく一方的な主張を書き連ねた手紙がいっぱい行く、あるいは名前を名乗らない電話が行くということは、これはあなただっていけないと思うでしょう。そこを私は一応言っておきます。

島小委員長 それでは、討議も尽きたようでございますので、これにて自由討議を終了いたします。
 本日は、これにて散会いたします。
    午後四時五十六分散会

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