基調       2004・5

 はじめに

 中日本ブロック交流集会も14回目を数えます。私達がこれまで議論してきた内容を継続できるように基調を考えてみました。
 私たちが大事にしている運動は「四つの課題を三つに学ぶ」という基調を持っています。
 一つは、私たち働く者こそが、社会の主人公、職場の主人公であり、当然に人間らしく働きつづけ、生きつづける権利があるということです。
 二つ目に、自分たちが人間らしく働き続け、生き続ける権利が保障されていないのは、個人の能力や努力不足、家庭環境をはじめとする競争条件の悪さに原因があるのではなく、社会の仕組みそのものに原因があるということです。
 三つ目にそれは、個人的な努力によっては解決のできないものであり、仲間を増やし、組織を強化しながら社会の仕組みを問題にしていく以外にないという事です。
 第四に、この取り組みは、歴史の法則にのっとった闘いであり、私達の仲間とのつながりは必ず大きな力になると確認することに他なりません。
 そして、その為には、古典にまなぶ、資本にまなぶ、仲間にまなぶという三つに学ぶという課題を、相互に関連したものとしてとらえながら、具体的に学んでいくということが求められているという事です。

 私達が「労働者は社会の主人公」というのは、本来働く者が人間らしく働きつづけ生き続けるための保障は、社会・会社が保障すべき当然の事であるということです。しかしその義務をこの社会は果たしていません。
その具体的な内容として @生命と健康が守られる A働く場所の保障 B賃金の保障 C安心して暮らせる老後の生活の保障 D次の世代を生み出していける教育の保障、この5つの条件が必要と考ええてきました。にもかかわらず、この社会・会社はこれを保障していません。この5つの保障の大前提になるのが、平和と民主主義です。
5つの保障がどうなっているのか、職場・生活で日頃から感じていることを、4つの「弱さ」とどういう関係にあるのかを考がえながら、この間交流を積み上げてきました。

 昨年の交流で議論になった事は以下の3点です。今年もこの三つの課題に沿って交流を深めたいと思います。
 一つは何でも話ができ、相手の思いを大事にする話し合いが大切という意見と結論が出ない話し合いは本当に力になるのかという疑問、意識です。
 二つは私達が生きていく上で、働き続けていく上で持っている「競争意識・負い目」の議論です。昨年出た意見として、自分は働き続けるために仲間をけ落としてまで職場で残ろうという「競争意識は持っていない」という意見です。
 三つは家族ぐるみの討論です。自分の事は話すことができても、家族とのぶつかり、子供のことなど自分たちの中に話す事への躊躇が有るという点についてです。また男の持つ常識と女性の持つ常識も違い、その事は話す中でしか気が付かないという点です。


1・相手の思いを大事にする話し合いの大切さと、結論の出ない話し合いが力になるのかという疑問

 まず身近な所で集まりを持つには、連絡や一声掛ける事が大事になっています。しかし集まろうと考えている所では「集まれば何か持って帰ってもらわないと開く意味がない」「集まっても雑談では次に又集まろうという気持ちにならないのでは」という呼びかける仲間の方にこの様な意識があります。また一番色々仲間と話す必要が有ったにもかかわらず、かえって集まることができない状態にもなっています。
 何故私達の中に、集まる事で行動の一致をはかるとか、解決の方向付けが必要という意識が強いのでしょうか。
 一方では何でも話をすることで、自分の存在を認めてくれるという安心感が生まれ、話し合うことで生きる力も出てくるという意見も出ています。このことについて今回も考えていきたいと思います。以下は昨年の交流会で出された二人の意見です。


【一人は○さんの発言です】
 「仲間を認めるだけでいいのか」という批判はいろんなところであります。私たちの友の会では結論の出ないグダグダした討論を続けています。そうしたことに対して批判があります。批判の中心はいろいろありますがポイントを絞ると「そんな結論の出ない討論で、果たして闘いや行動に結びつくのか」というのを言いたいのだと思っています。私たちは、そういう討論をしてきたから、辞めておかしくないなかでも職場を辞めずに、運動を離れても当たり前のようなきついなかでも運動を止めずにきました。それだってこういう討論をしてきた素晴らしい成果ではないか、という気持ちを持っています。
 しかし「仲間を認めるだけでいいのか」という批判が、なぜ切れ目なく続くかというふうに考えると、批判を受ける私たちのなかに、その批判をごく一部でも受け入れる気持ちがあるというか、「確かに言われるところがあるよなあ」と、こう思う気持ちがあるもので、そこに焦点を絞って批判をしてくるのかなあと思いますと、実は私のなかにも大きく存在しています。運動のなかで「本当にこれだけでいいのかなあ。結論が出ない継続討論だけでいいのかなあ」というのを日々思います。


【もう一人は○さんの発言です】
 グダグダした討論が力になるか否かと言われてましたが、長年こういうところに出てきているのですが、友の会でやっている話し合いというのは、活動家の人から見ると、本当の家庭の中の女性の愚痴に見えるようなことをグダグダと、月一回集まって話をしています。病院職場では休みを取ることでも凄い職場から圧迫があって、親の病気と重なって自分の精神状態では追いつめられていて、言い方も凄いんですね、急に休みを請求したら「あなたね」という感じで課長から言われると、自分は精神的に参っていて、親のこともありしますし母を失ったという喪失感とか、仕事のなかで凄く疲れていて、どうしようも出来ない時に「駄目」と言われるとやって行けないでうつ状態になった時期があった。
 それを乗り越えてこられたのは友の会でグダグダの話し合いの場が、周囲から見ると方針も見えていないし、継続討論もしてなくて、課題も見えないような話し合いの場なんですが、自分にしては自分の気持ちを分かってくれる、なんでも話しても受け入れてくれる安心感があるし、それがストレスの発散にもなるし、グダグダと見える話し合いのなかでも、職場のなかの仕事の話も出て来ますし、継続討論には見えなくても問題点は少しは見えだしていると思う。   
 例えば学習会に出る、出ない時の気持ちだとか、患者さんの苦情とか医療ミスで些細なことでもレポートを提出させられたり、その時の気持ちとか、自分たちの話し合いで解決出来ないが、現場でも個人判断して個人解決をしているが、グダグダの話し合いの場で力になっているように思う。


 このように何でも話ができる場について、話し合うだけでいいのかという意見と自分が認められる安心感について話が出ています。今回も継続して話し合いの意味について考えたいと思います。

2・自分たちが持っている「競争意識・負い目」の討論について

 職場の中では今競争関係が強まり、簡単に人格が否定されることがまかり通っています。
以下は仲間の気持ちです。「自分は電圧なんかの回路は読めない。その時にはまずいなあと思いながら、この歳になって『教えて』と言いにくい。『どうしてこんなことを知らないのか』と言われる怖さがある。知っていて当たり前、出来て当たり前のことが解らない時には情けない。『自分だけ解っていないのでは』とか『自分だけ出来ない』と思う時は聞くのをためらうし聞けなくなるし惨めさをもつ。」。このような怖さ、惨めさを味わう状況になっています。
 仕事が判らない時に、惨めと感じながら、人格を否定されても仕方がないと思ってしまう、自分たちの「競争意識・負い目」をこの間話そうとしてきました。競争社会の中で一人の人間として扱われて当たり前という意識を持つ前に、私達は「この仲間に遅れると働き続けられない」という思いにさせられています。若い仲間ほど競争意識が強いという意見も出ています。
自分達が「日頃会社が赤字になれば働く場も持てない」と厳しい現実を突きつけら、それへの反発で自分たちの厳しい実態を出すことで、この状況を変えていこうという意見も身近に根強くあります。この事は厳しい働き方、生活を交流することで仲間とのつながりが出来ると考えがちになりますが現実は、仲間とのつながりが持てなくなっています。
 大事なことはこの社会では自分たち働く人が認められない、評価されないことが共通認識を作る上で大事なことではないかと思います。この中で自分たちが持っている「競争意識」を議論することは、お互いを認めれる条件を作るのではと考えています。
 仲間の気持ちを大事にすることで、一人の人間として認め合えることで「この仲間とは意識して競争しなくても済むという安心感が出来る」というような報告があるように、自分たちが作ろうとしている団結の中身が具体的になってきました。
 この「競争意識」について、昨年の交流会では、自分は仲間をけ落としてまで職場に残ろうとは思っていない、自分の中には競争している気持ちはないという意見が出されました。「競争意識」にこだわって居る仲間と、自分にはないよと思う仲間とは共通点がないのか考えていきたいと思います。


【「競争意識」について、交流会で話した発言です】
 職場は○○です。分散会で出された、職場の競争が激しくなっているのと、どこの職場でもいろんな販売が言われて自腹を切っている話が出て来まして、なかなか自分はそう思えないという話をしたのですが、自分は競争している意識は全くないんです。
 自分の職場は29名で、50歳以下の人が3名で、それ以外の人は50歳以上で来年定年を迎える人が1人いる。そういうなかで五つの分担作業があって、4名ぐらいずつ配置され、基本的にはその仕事をするが、殆ど一人作業が多いのですが、忙しい仕事に分担されている所に、比較的暇な担当から相互応援をする。会社がそうさせているのではなく、暗黙のうちに自分たちでそうやってきた。「手伝ってくれ」と。他の所から自分たちも応援をして貰っている。
 分からない仕事の時に、きっちりした手順書を貰って、それで仕事が済んでいる。そういう形だから、お互いに助け合ってやっているから、「あいつを蹴落として」とか、「あいつが落ちれば自分が上がれる」というのが全く起きない気持ちですから、「競争は激しい」と聞いて、言葉では分かるがなかなか理解出来ない。
 私の職場は「○○以外の仕事もどんどん増やして行く」となって、その一環として販売もある。販売というのは、携帯電話から○○のネットワーク商品など様々で、自分達ではやっていませんが一時はエアコンの設置とか電化製品まで。「売れ」と言われ、なかなか売れないなかで、自分の仕事が忙しくそれどころではない気持ちなので、「土、日曜日に販売に行け」と言われるが行っていないが、そうなると売れないで販売目標があって携帯電話であれば「一人四台売れ」とか、電話機を「二台売れ」とかいうような目標を掲げて、会社も強く言ってこないので、自分も平気でいられると思うが。最終的には「最低でも一つ売ってくれ」という話になる。自分は高速通勤していてハイウエーカードが必要で5万円のを購入する。月に4〜5万必要なものですから。ハイウエーカードも勿論販売しているものですから。自分が購入するとそうすると気が楽になっている。そういうのも売れない人からは「あなたはいいなあ、売れるから」と言われる。「自分は必要で買っているので、必要でないなら買う必要はない」と言っている。
 自分としては自腹を切っている意識はない。ハイウエーカードは必要で買っているし、携帯電話のモバイルカードも必要で買って自分で使う。自腹を切ってやっている、そんな問題意識を持って買っているのではない。必要のない物を買うのなら自腹切りだが。


【自分たちが会社から大事に扱われていないということで、○さんの発言です】
 何で人を評価するか、要は好き嫌い・休暇を取る・文句を言うという事か。しかし、Fさんは文句を言うがなんでD評価にならないのかというが、Dにはならない。「TV関係の仕事はFしかできないのでDにはしない」と当局は言っている。人を大事にしていない。
  いま、○○から「トイレ廃止」が検討されている。「公衆トイレを使え」、「コンビニのトイレを使え」と言っている。仕事に行く無人局部署局からトイレが消える。組合に行っても「会社から聞いていない」で一蹴される。人権無視だが問題にならない。男も困るが女性ももっと困る。先行きの無い潰れる会社という感じ。人間にとって当たり前の事を認めない。「トイレを無くす」といわれても「おかしい」とすぐならないアキラメもある。


3・家族ぐるみの取り組み

 友の会の議論の中でも、家族のことが多く出され始めているなと感じます。共通認識の議論を通じ、家族の事を話すと仲間からどう思われるかという不安感が少しずつなくなって来ていることを感じます。
 しかしまだ職場の仲間には丁寧に接しても、なかなか家庭では丁寧な話し合いができないでいます。職場では、仲間同士対等に接しなければといけないという意識を自分たちは持っていますが、家では相手を大事にするという意識がはっきりしていません。
 また家族の問題は方向性のでない「くだらない話し」という意識もあります。家族との関係で現れている問題もこの競争社会の大きな課題だと少しずつ整理されてきていると思いますが。家族ぐるみの討論の広がりが、民主主義を考える力にもなるし、お互いを認める力になると思います。
 職場ではお互いの人格を認めて接する必要性を感じながら、どうして家族に対してはそこを大事にしないのか、自分たちが持っている常識が強く出てくる問題と意識して、もう少し継続して考えていきたいと思います。
 昨年の交流会では夫婦で些細なことを話すにも、エネルギーがいるという話しと、自分の事は話せても、なかなか家族の問題は話せないと交流会で二人の方が発言をしていますし、各県でも報告がされています。


【夫婦で身近だからこそぶつかりも多いと言うことで、女性の発言です。】
 家庭で洗濯はどっちがするとか、皿が誰が洗うとか、それこそくだらない話をズーとしてきているのです。家庭の単位ですら夫婦ですら、そんな事を話せない状況にあるということも。逆に夫婦でこんなに近くにいて毎日顔を合わして話している筈なのに、ハンカチにアイロンがかかっていないだとか、そういう話が出来ない。子供の保育園の送り迎えを誰がするのかという話を、そういう話を奥さんのほうも随分黙ってきていたし、旦那さんのほうは、「やれ活動だ」と言って、奥さんも「しょうがない」と出してくれるんで、男の人はそういう所で話が出来るかも知れないが、活動家の女性ならどこかで話せるだろうが、私なんかどこにも話す場がなくて、働いてきていたので、たぶんそういう場がなければ、働き続けてこれたろうか、夫と話し合う機会が持てただろうか、きっと違う方向に行っていたように思うんです。
 闘えない仲間、行動を起こせない仲間の気持ちを大事にすることで、なにかあった時に、「あの人だったら自分の気持ちを理解してもらえる」ということが、次の原動力になるのではと私は思っています。


【ぶつかりの中で少しずつ意識が変わってきたという報告です】
 2ヶ月に一度学習会が出来るようになって3年になりますが、生活に必要な場になっていると感じています.今は何かと不安に思うことが多いし、職場はますます成果を問われて話をする時間も無く、お互いに何を考えているか解らないで働いています。自分の事で精一杯で人のことを考える余裕なんてありません.そんな毎日を過ごしていると家の中でも衝突してしまう事が多くなります。それを学習会で話せるようになって、どうして喧嘩になってしまったのか、どう思っていたのかお互いの気持を聞けるようになってきました。
 聞いてくれる人がいる、なんでも話せる場があるというのはありがたい。しかし2人だけではなかなか学習会の時のように話しは出来ず、難しいものだと言う事も感じています。前に話したから解ってくれていると思っても少し経つとすぐに忘れてもとに戻っている。
 以前お互いに仕事が遅くなって帰り,あわてて作ったおかずに「心がこもっていない」と言われた事について皆には話せないと思ったけれど,隠していると他の事も話せないので,思いきって仲間に話しました。気に入らなかったかもしれないけれど出来合いのものではなく自分で作ったものを食べるようにしたいと思ってその時は精一杯だったことや、それなら出来合いのものを買ったらどうかと言う話もして納得したと思っていたのに、また『料理の下手なかみさんを持つとつらい』と言う言葉が出て喧嘩になったりしています。そういう事の繰り返しですが仲間に話せる事でお互いに考える場ができて少しずつ変わっている気もしています。


【自分の事は話せても、家族の事はなかなか話しづらいという発言です】
 分散会の後半で子供の病気とかいろんな悩みが出されて、実は自分の長男も病気だが、時間内にそういう話が出来なかった。中日本ブロックの雰囲気がそうさせるのか、何でも話せる関係が大切だと思ったし、私たちの友の会の目標だなと思いました。
 私自身ここ数ヶ月で前立腺を悪くして薬を飲んでいるが、自分の病気のことは簡単に言えるが、なかなか子供の病気については言えない常識を持っていることに気が付いた。てんかんという病気なんだが、それが言えなかった自分の弱さに気が付いた。突き詰めると自分の弱さに気づいていくと、それが自分が運動の前進のヒントになるかなと思いまして、どうして言えなかったのかを考えていましたのでお話しますと、ひとつは会ったばかりの人に言えないというのが、自分の心のなかにあるのかなあと思いますし、言い訳で言うと時間が無かったというようなこともありました。
 「競争」で言うと、病気など人並み以下というふうなことになると、恥ずかしいと思う自分自身の常識があると感じましたし、病気となると自分の家族だけの特殊なケースなのかなあという、「そうではない」と言いつつ、「そうなのかなあ」という常識が頭をもたげているものですから、それ以上の理由があるのかと悶々と考えていました。来てみて、そういうことに気が付いただけでも良かったというのが自分の感想です。

 昨年の交流会で出された課題が、各県協でも少しずつ共通した課題となって話され始めています。今年も3つの課題を中心に議論する中で、この社会で、職場で一人一人が大事にされて当たり前と言う気持ちが少しでも持てるような交流の場にしたいと思います。
                        戻る